8月31日の音楽室で
あぁ、もうすぐ夏休みが終わる。今日は、8月31日。すでに太陽は高く昇ったお昼。あたしは、一人音楽室にいて、床に座っていた。吹奏楽部だから練習しているというのもあるが、理由はこれと言ってなく、ただ家に居たくなかっただけ。それに、今のあたしのこの状態は、どう見たって吹奏楽の練習にはたどり着けないだろう。それに、あたしは今、音楽に魅力なんて感じていない、楽しいとも思わない。興味もないし、あたしが吹奏楽部にいる理由なんてない。そもそも、その理ができたのは『あの日』だ。
「暑い……」
夏休みが今日で終わるとはいえ、夏は夏だ。暑いに決まっている。あたしは楽譜で、日焼けした顔を仰ぎ、人工的に風を生み出す。と、その楽譜の題名を見て思い出した、あたしがここにいる理由。あたしはそっと、前にあったピアノを鳴らしてみる。誰もいないこの教室の静寂が、その音によって切り裂かれた。
あたしがここにいる理由、それは、今日があたしにとって『あの日』だということ。
「今日、お兄ちゃんの命日だなぁ……」
あたしはそっと、つぶやいてみる。本当はつぶやきたくない、でも、自然に口に出してしまう。そのことが、今日ということを自覚させた。
お兄ちゃんは、有名なピアニストだった。あたしも追いかけて、必死にピアノを習った。それでも追いつけないほど、お兄ちゃんのピアノは凄かった。だけど、去年の今日、事故で死んじゃったんだ。悲しかった、でもそれより先に、その理由が信じられなかった。ドラマだったらこういうとき、事故に遭いそうな子供を助けるとか、誰かの身代わりになるとかなんだけど、お兄ちゃんはまったく違った。あたしも最初、信じられなかった。
お兄ちゃんは、コンクールまでの間をコンビニで過ごしていた。そして時間前になってコンビニから出ようとしたその時、事故に遭った。そのとき、なぜ事故に遭ったのかが問題である。お兄ちゃんは、そのときコンビニで買い忘れた昼ごはんの『シーチキンおむすび』を、コンビニに買いに行くときだったのだ。おむすびの値段ざっと105円、それならお兄ちゃんの命は何円だっただろう?未だにおむすびなんかで、おにいちゃんは連れて逝かれても良かったのだろうかと思う。
それから、あたしの音楽への思いは途絶え、消え失せた。あれから、今日まで、一回もピアノになんて触らなかった。触れなかった。お兄ちゃんを思い出してしまうから。お兄ちゃんの面影を、ピアノにまで探してしまうから。だからそれが嫌で、悲しくて、触らなかったんだ、ずっと、ずっと。
もし、自分の命がおむすび以下ならどうしますか?そういわれたら、あなたはどうしたいですか?せめて、お弁当になるとか、夢を持ちますか?それとも、そのまま食べられるまで待とうと失望してしまいますか?
もし自分の運命が変えられるのならば、お兄ちゃんは死ななかったのですか?
もし自分の運命がわかっていれば、お兄ちゃんはおむすびを買いに行かなかったのですか?と、何度も何度も、恥ずかしいような疑問をあたしは心に投げかける。
と、あたしの目から涙が、ほろりほろりと溢れてきた。
「なんでだろう……、今更。泣いたってしょうがないのに……」
拭っても拭っても、涙はどうしようもなく溢れ続ける。あたしはもう諦めて、そのまま頬へ伝わらせることにした。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんっ……」
あたしの声は、音楽室へ響き渡る。誰もいないこの場所で、音の鳴らない音楽室で、あたしは一人静寂を掻き乱していく。
あたしは、吹奏楽部員。だけど、あれから部活には出ていないし、コンクールだとかにも出場していない。きっと、誰か他の部員が代わりをやって見せただろう。
「お兄ちゃんみたいに……上手なピアノは弾けないけど、あたしらしい音楽を、奏でてみせるからっ……」
あたしはそういって、ピアノの鍵盤を押す。気持ちはお兄ちゃんに届くと思い、精一杯鳴り響かせた。すると、どこからか、声がしてきた。
『ありがとう』
そういうと、ピアノは勝手に音楽を奏で始めた。それも、あたしの弾くピアノに共鳴させるように……。あたしはその音に合わせるように、再びピアノを鳴らす。涙がピアノの音に混じっていくけれど、もう気にしない。久しぶりに、本当の音楽に出会えたのだから。
『ありがとう』
そういって、その声は消えた。
9月1日、始業式。とうとう夏休みは終わった。
あたしは覚えている、昨日のことを。昨日の、そう『8月31日の音楽室』を。あそこで何が起こって、何が変わったのか……。あたしはそっと、ピアノに音色を通す。誰にもまねできない、音楽を作ろう。
誰にも似せられない、音楽を描こう。
自分らしい、音楽を奏でよう。
そしてまた、ピアノに音色を灯す。そう、お兄ちゃんの思いとともに……。
end
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