博識な彼女

著:秋野



「ユミー、あんた何してんのー?」
ふいに声をかけられ、くるりと振り向く。
そこには友人、山中スズの姿があった。
「なにって。……なにしてる風に見える?」
「そりゃあ……」
机に広げられた何枚かのプリントを、肩をすくめて見せてユミは笑った。
いや、だからそれはさっきから見えてるって。だから聞いてるの。スズは首をかしげた。
梅干を食べてみたら甘かった? みたいな、そんなフクザツな表情。
「もう下校時間過ぎてんのよー? とっくに。なぁんでユミが居残りなんかしてんのよ。
いつもならちゃっちゃと片付けるじゃん」
珍しいわね、単元テスト学年1位の常連サンがどーしたの? とスズ。
もう夕刻なのだろう、霞坂中学の校庭は傾いた陽に照らされて赤かった。
「私だって、たまには手こずるの。スズこそなんで居るのよ。こんな誰もいない教室で」
「べっつにー。人待ち」
「そ」
「でもさ、そんなムズい問題あったっけ。なんなら手伝おうか。私も暇でさー」
ユミは机上の紙に目を落とした。放物線を描いている無機質な図に、座標の点とか真っ直ぐな直線が交
わってたりしてる。いわゆる数学の二次関数だ。これを解くのが、課題。
「ううん、いいよ。なんとか一人でやるつもり」
「ふーん」
いとおしむような表情で、プリント用紙を見つめる。
この問題をつくったのは彼女の担任の教師だ。
……今日も、そのうち来るだろう。
ユミは机の中のものをリュックに移した。帰る準備をしておく。
そのとき、なにかがぽとんと落ちた。
それは、ちょっと古びた本。たしか図書室のものだ。
スズは他にすることもないので彼女の動作をぼーっと眺めていた。
落ちたそれを、彼女は手を伸ばして拾った。
そうだ、あの本は。
スズは気がついた。あれは、彼女が何日か前に借りたものだ。その場面をスズは見ていた。
たしか、……期限はもう過ぎているはずだ。珍しい。この几帳面な少女が返却の日を守らないだなんて。
12月の海水浴、真夏に湯たんぽというデンジャラス極まりない組み合わせ以上に在り得ない。
スズはおののいた。そして思った。もしかしたらこいつはユミではなく実はユミに化けた他国の隠密スパイ
じゃないのかと。それなら、博識な彼女が居残り勉強をしているというこの不可解な状況にも合点がいくと
いうものだ。うんうん。
と、スズの果てしない議論にさらなる拍車がかかろうとしていたときに、突如ガラリと開けられるドア。
「うお、村上。まだ残ってたのか?」
「岡野先生。……ええ、けっこう難しくて」
「別に明日出してもいいんだぞ。なにも今日中にやらなくとも……。宿題なんだし」
岡野先生、と呼ばれた男は困ったように苦笑して頭をかいた。
「それに山中も。もうだんだん暗くなってきてるぞ」
「あ、はーい」
スズは、見た。
ユミの表情を。彼が来たとたん変わったその横顔を。
「しっかし、村上が解けないんじゃ出題の仕方をまずったかな。他の生徒もできんだろう」
「なに言ってるんですか」くすくす笑う。
とそのとき、なにかがぽとんと落ちた。また、あの本だ。
ちょうどそばに歩いてきていた岡野がそれを拾い、そして顔をしかめた。
「これ……。どうりで無かったわけだ」
「え?」
「え、じゃない。とっくに期限すぎてるぞ? この本。ったくどやされんの俺なんだから……お前も知って
るだろ、あの先生うるさいんだぞ」
「すみません、忘れちゃってたみたい。今から返しに行きますね。……あ、でも今日休館日…」
「……しょうがないなあ。生徒に鍵を任せるわけにもいかないし。俺もついていくよ」
「わあ、ありがと先生」
ふわぁ、と花が咲くような笑顔。
岡野もため息まじりに、笑った。手の焼く生徒ほどかわいいというか、そんな顔。
「山中も早く帰るんだぞー? 気をつけてな。また明日」
はーい、さようならー。スズは応えた。
岡野は「えーと確か鍵は〜」とか言いながら頭をかきつつ教室の出口へ向かう。
ユミもそのあとに続いた。
その後ろ姿は、珍しく居残り勉をしていた彼女。
いつも守っている返却日を忘れていたという彼女。
さっきまるで謀(はか)ったかのように、本をぽとんと落とした彼女。
(あんた、まさかー……)
岡野の背中についていく。スズの内心を読んだかのように、おもむろに、ユミはついっと人差し指を立てた。
そしてそれを、桜色の唇の上にもっていく。
やがてふりむく、その口元に浮かぶのは――――。

『   』

スズが目を見開いて見つめるなか、ユミは何事もなかったかのようにドアを閉め、たたたっと駆けていった。

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