亡霊に花束を

著:テリー山田

薄い三日月が夜空に張り付いていた。北風が紙くずを路上に吹き飛ばしていた。小見川の枯れススキが川原に黒い影を落としていた。橋の下のコンクリートの護岸にちらちらと赤い光が見えた。消えそうな火の周りに黒い塊達がうごめていた。
 自称霊能力者の東野呪言がぼろぼろの黒のローブをまとい、彼しか理解できないであろう言葉を放っていた。
「この世には胡散臭い霊能力者はいっぱいおる。人の前世をあだこうだと自分に都合がいいように霊視し、金儲けにしようとしている詐欺師達だ。しかし私は違う。本物の霊能力者だ。 この川の水を見ろ、この水はあの世からつらつらと流れてきた命の水じゃ。この世のありとあらゆるものが汚れては浄化され、また再生されるのじゃ。これが事物浄化の法じゃ・・・・。」
 仲間のホームレス達は彼の言葉に耳をかすこともなく、身震いをして、自分たちのダンボールハウスへもどっていった。東野呪言はぶつぶつと、呪文のような言葉を発しながら、その場に残った。
 焚き火の火も消え、川音が絶えることなく聞こえる静かな夜、ぎやぁーと言う悲鳴が轟いた。バットが振り上がり黒い塊に振り下ろされた。そして、油くさい臭いともに、赤い光が辺りをぱっと明るく映し出した。
 夜が明けると、黒く焦げただれた塊の中に東野呪言の死体があった。駆けつけた刑事に、ホームレースの平蔵が事情聴取を受けていた。「呪言さんは、俺たちを救ってくれたんだ。」「奴らが襲って来た時に無言で奴らに立ちはだかってくれたんで、俺たちは逃げることができたんだ。」と不自由な足をさすりながら平蔵が話していた。もう一人のホームレースのダシューは、騒ぎごとが大嫌いで、人の輪から離れ、川原の枯れたすすきに身を潜めていた。
 新聞は事件のことを「少年の暴走」「人間狩り」とセンセッショナルに煽り立て、普段は見向きもしない社会の底辺で生きるホームレースの姿を、同情あふれる言葉で報じていた。 
 しばらくは人々の関心も高く、彼らへそれなりの施しものが集まった。恐ろしい目にあったのは不幸であったが、彼らには正月が来たような豊かな日々を送ることができた。役所の方もこのまま彼らをほっておくこともできず、頭の弱いダシューは障害者施設に入れられ、平蔵は、拘束されることを嫌って、いつの間にかこの場所から姿を消していた。
 警察の方もホームレース殺人事件本部を立ち上げてはみたものの、いくら調べても、犯人とホームレスとの接点や動機を見つけることが出来ずにいた。人々から事件の関心が薄れるともに、益々薄ぺらい捜査を繰り返すのみだった。
 そんなこととは知らずに、自分に捜査が及んで来ないかと、胃が痛く食事も喉を通らない状態でびくびくと生活している少年がいた。それは、ホームレースを襲った犯人の一人青野直己だった。    気の弱い直己にとって、毎日が悔いることの連続だった。自分の犯した罪を悔いるというよりも、悪夢に怯えなくてはならない自分の状況を悔いていたのだ。
 東野呪言の遺体は引き取るものも現れず、市の無縁墓地に葬られていた。そのことを知った直己は、市の無縁墓地に姿を見せては、僕は何もしていないだから、僕のことを恨まないでお願いだよと懇願ともいい訳ともつかない気持ちをぶつけていた。
 市の墓地は潅木の生え茂る丘の中腹にあった。冬の日没は、早くあっという間に暮れ始めた。辺りは薄暗い夕闇に包まれた。くっくっくうと山鳩が気味悪い鳴き声をあげた。
 「お前はいつも自分のことしか考えていない奴だな。」
という低い声が、繁みの奥深くから聞えた。直己は自分が変になったんだと思った。
「まぁいいさ、私だって人のことを思って生きてきた人間だとも思わないから、・・・。どんな理由であれ、私のことを気に留めてくれるものがいるだけでも、私は嬉しいよ。」
「誰だ。」
「私はお前が線香をあげてくれた東野呪言だよ。」
あ・・・と言う声が夕闇の中に響き渡った。
 直己が気がついたのは、ベットの中だった。チャガチャという音が台所の方から聞こえていた。
ヘアカラーを巻きつけた彼の母が、朝の支度をしていた。
 直己は母親とアルツハイマー症の祖父と三人で暮らしていた。母の玲子は二十年近く、河邑芳治という県会議員をしている男の援助を受けていた。その男は、直己の父親になったり叔父になったりした。幼いころはパパとも呼んでいたが、直己が大きくなると、叔父ということになった。
 今、玲子には沢山のお金が必要だった。。アルツハイマー症の祖父の介護費や直己の教育費などが彼女を追いかけてきて、生活臭いお金が出ていった。
「ねぇ直ちゃん顔色が悪いけど、大丈夫なの。」
「何でもないさ。」
「そう、この上、直ちゃんに病気にでもなられたら、ママどうしょうもないわ。」
「ママ、僕どうしても大学へ行かなきゃだめ?」
「何言ってるの。直ちゃんは頭もいいし、行くに決まってるでしょ。」
「お金のことなら心配しなくていいのよ。直がちゃんが大学を卒業するまでのお金は、河邑の叔父さんが出してくれるもの。」
息子にお金の心配までさせるようになったか思うと、情けなくて腹が立った。以前ならお手伝いさんがいて、ブランド品が溢れていた頃の生活を思い出すと、玲子は無性に怒りがこみ上げてきた。
 以前は河邑の家とも交流があり、河邑の妻葵夫人も彼らにそれなりの気配りをしてくれた。河邑の屋敷で葵夫人に可愛がってもらった記憶が直己にはあった。
 河邑の家は代々続く旧家で芳治はそこの婿養子だった。芳治は河邑家の地縁と財力で県会議員になったような男だった。河邑夫妻には子供がいなかったので、愛人に子供ができたことにかなりのショックを受けていた。
 しかし、葵夫人は冷静だった。芳治と相談の上直己を引き取ろうと言ってくたのだ。しかし玲子はうんとは言わなかった。自分も母親に早く死に別れ、寂しく惨めな思いをうんと味わってきたからだった。
 しかし「ほら、実家だと思って一日二日遊びに来させて下さいな。」という気遣いのある葵夫人の提案を玲子は断ることができなかった。葵夫人は直己のことを気に入ってくれて、「ほら、食事中には肘をつかない、迷い箸はしない、味噌汁は音をたてないで戴く」等々とこと細かく食事の作法を教えてくれた。葵夫人を直己は祖母のようなに感じた。
 帰ってきた直己が葵夫人が教えてくれたように食事を取ろうとすると、「何してんのよ。そんな杓子定規に食べることないのよ。どんなふうに食べたって、おいしく食べることができればいいの。直己の好きなように食べなさい。」
と玲子はにっこりと笑って言った。好きなようにと言われても・・・。いろんなことを覚えたい、大人の真似をしたい、出来る事が増えて、大人に褒められたいという直己にとって、玲子の言葉は以外で、どうしていいかわからなかった。
 玲子の方も最初は気にならなかった直己の馬鹿丁寧な言葉遣いや、畳の縁は踏むな、襖は両手で開けるなどと葵夫人の口真似をして自分に注意してくる直己の変化をうっとうしく感じるようになった。
「うるさいわね。そんなこと男の子が言うことじゃないのよ。男はでんと構えていればいいのよ。」と苛立ちそうに言った。直己は二人の女達の考え方の違いに戸惑っていた。
 直己は玲子も葵夫人も嫌いではなかったので、河邑の家では、夫人が喜ぶように礼儀正しい子を演じ、家に帰ってからは、今まで通り勝手放題をしていた。
それでも、直己を悩ますことがあった。「ねえ、どっちが好きなの」と葵夫人から聞かれると「おばちゃんが好き」と答え、玲子に「ねえ、どっちが好きなの」と聞かれると、「ママに決まってる」と答えた。二人から愛されることは、嬉しいことだったが息苦しさも感じていた。
 そんな時、直己をめぐる騒動があった。月に一度直己は河邑の屋敷へ遊びに行っていた。その日、葵夫人は風邪をこじらせて寝ていた。それでも直己の顔見ると起きて、いろいろと世話をしてくれた。直己はそんな葵夫人が可愛そうになり軽い気持ちで「僕、もっとここにいてもいいよ
」と言った。葵夫人は嬉しそうににっこり頷いた。
 玲子の方では、いくら待っても帰ってこない直己ことが気が気でならなかった。遂には、わざと帰さないんだと思い込んでしまった。そう思うと黙っていられず、警察に誘拐されたと電話したのだ。
 河邑の屋敷に警察がやって来た。
「この子を誘拐されたと母親から連絡がありまして・・・。」
「そんな馬鹿馬鹿しい話、この子をちょっとの間、預かかっているだけですよ。」
「当家とこの子とはどういうご関係ですか。」
まさか主人の愛人の子という訳にもいかず、葵夫人は言葉に詰まってしまった。その場は「親戚の、ほら、遠い親戚の、今度お手伝いさんに来ていだく方のね。」と、その場は何とか誤魔化したが冷静な彼女もかなり慌ていた。
 世間体を第一にしながら生きてきた葵夫人にとっても、突然のこの騒動に動転を隠せなかった。
自分より下に見ていた人間に、犯人呼ばわりされたことを彼女は許せなかった。 表と裏の礼儀もわきまえない、恩義しらずの野良猫めと忌々しそうに呟いた。
 優しい葵夫人が夜叉のような顔になった、あの時のことを思い出すと、今も直己の心は寒々とした。自分の言った一言が、二人の女の心に閉じ込められていた、どろどろした得体の知れないものを噴出させたのだ。
 
「お金の心配など縁遠い暮らしをしていたのに・・・、今はため息しかでないわ。」が近頃の玲子の口ぐせだった。河邑の方も彼の気持ちがどうこうというよりも、彼の自由に使える政治献金という見入りの金が少なくなり、不透明な金までどう使ったのかチェックを受ける時代で、玲子達の生活費を鷹揚に引っ張ってくることができなくなったのだ。しかし玲子達の援助を打ち切るわけにはいかなかった。玲子との関係を世間に漏らさせないための、体のいい口止め料だったからだ。五十を過ぎた玲子に新たなパトロンが見かることは十中八句なかったし、彼女の経営するスナックからの上がりを何とかやりくりするしかなかった。
 玲子のスナック華には、数年前までは、ちょっとした秘密があった。河邑の県会議員という後ろ立てがないとできないことだったが、地元の建設業者が談合の場に使かわれていたのだ。公共事業を落札業者は他の業者に身引き料を払うのが決まりだった。しかし公に払う訳にもいかずスナック華へ飲み代として払らわれ、その金はほとぼりが冷めたころ玲子によってキックバックされた。
 しかし公共事業も減り順番に仕事が回ってくるのを待っていたら、立ちいかなくなった業者の一人が警察に垂れ込み、玲子も公正取引妨害罪で逮捕され、禁固一年執行猶予三年の刑をいいわたされたのだ。刑務所に行くことはなかったが、厳しい取調べや拘置所での生活を思うと本当に割りの合わない仕事だと玲子は思った。
 その頃からスナック華に常連客として通っていたのが、青葉建設社長の津村源蔵だった。息子と自分の息子の直己が同じ高校の同級生だということがわかった時も、何か偶然とは思えないぐらいに不思議な気持ちになった。
源蔵は母子家庭で育って、夜間の大学を出ていた。
 そんな苦労をして今の地位にいる源蔵と玲子は話せば話すほぞ、生きてきた境遇がよく似ていた。「給食代が払えなくって、学校に行くのがつらかったわ」と玲子が言うと「実は俺も同じ思いをしたんだよ。」と慰めるように源蔵は言った。玲子は見栄っ張りでこんな貧乏話を心を開いて人に話したことなどなかった。
 玲子は源蔵の腕に抱かれてみたかった。酒のせいではなかったが彼女はよろける様に彼の胸にすがった。源蔵は小太りした中年の女にさほどの魅力を感じなかったが、玲子が自分を曝け出して、本心から彼のことを欲しいと思う気持ちにほだされた。
源蔵が青葉建設の社長になれたのは、先代の社長に彼の仕事ぶりが認められ、津村の家に婿養子に入ったからだった。妻の美紀とは全然気が合わず、源蔵がいつも彼女を立てることで結婚生活が成り立っていた。
「味噌汁を音をたてて飲まないでって、いつも言っるでしょ」
「静かに飲んでたって、どんないいことがあるんだね」
「あなたって人は話にもならないわね。」 と以前は言い合うこともあったが、次第にお互い口を利くこともなくなり、「あれ」「そこにあるわ自分でとって」と指示語だけの感情のない言葉みのになってしまった。源蔵は仕事に専念し、美紀は長女と男の子の双子の育児に明け暮れていた。今、長女は結婚し男の子の双子は高校生になっていた。彼女の余った時間の大半はカルチャースクールで潰されていた。双子の兄は智紀、弟は勝憲といった。兄は美紀のお気に入りで、何故か弟の勝徳は疎まれていた。見かねた源蔵が「もっと平等にできないもかね。」「これでも、平等にしているわ。勝徳はすぐに暴力を振るうし、気持ちがやさしくないのよ。」「お前が差別するから・・・。」「自分の子を差別する親がどこにいるの。」といつも水掛け論で終わってしまった。彼女が二人の息子を同じように愛しているかというとそうでもなかった。出来のいい兄智紀をアメリカの高校へ留学させ、おまけに自分も英語遊学だといって渡米してしまったのだ。
 勝徳の通ってる高校は私立の新設校だったが、勝徳の実力ではその高校は無理なことだった。しかし多額の入学寄付金を納めることで彼のような生徒も入学を許可されていた。新設校の悲しさで財源基盤が不安定なために、学校としてはお金でサポートしてくれる親をある意味では歓迎していたのだ。
 勝徳をその高校に通わせたのは、すべてのことに兄と比較され、出来の悪い方の子と言われ卑屈な素振りの勝徳にせめて一流高校に通うことで何らかの自尊心を与えてやろうという源蔵の親心だった。
勝徳は強いものに服従の素振りをみせ,弱いとみると何でも自分の言いなりにしようとするタイプの人間だった。彼のようなタイプの人間は直己は大嫌いだった。しかし勝徳はそんなことはお構いなしに直己に近づいてきた。気の弱い直己にとって、暴力的で逆らえばどんなことされるかわからない勝徳は脅威でしかなかった。
 まずは勝徳の直己への要求は、カンニングの手助けをするだった。席替えの時に勝徳の近くに席をとり、答案用紙を彼に見せてやったった。それがばれそうになると彼の頭髪に答えを書いた紙を忍ばせるなど、カンニングのありとあらえるテクニックを試みた。その方法を考えるのも準備するのも直己の役目だった。
 勝徳は表向きは目立った行動をとることもなく、従順な生徒を演じていた。勝徳は教師から注意を受けると恐ろしい形相になって彼らを威嚇したが、それ以上は反抗うこともなった。学校側にとって彼は好ましい生徒ではなかったが、裏の事情もありルール違反がない限り見て見ぬに振りをしていた。
 寝てる子をおこすなじゃないが、ある一定のの距離を心がけるのが一番と公言してはばからないベテラン教師もいた。時々、二日酔いのようなアルコール臭いがすると新任の教師が話した時も、津村勝徳という生徒には、時々意識が薄れることがあって、それを防ぐためにアルコール臭がする薬を服用している。だから、医療的なケアの対象であっても、教育的を指導する対象ではないという申し合わせが出来ていると話す始末だった。
しかしそれは真っ赤な嘘だった。酒を飲むことは彼の唯一の息抜きだった。本心を打ち分ける友達もなく、誰もまともに相手をしてくれるものもいない学校生活、弱みを見せれば馬鹿にされ、疎ましがられるのはよくわかっていた。
 直己の絶望感は限界に近づいていた。直己は変な亡霊が出て来てから、呪言が葬られた市の無縁墓地には近づかなかった。直己は呪言の亡霊が勝徳に祟りてくれることを願った。少なくとも自分の前に現れるのは、おかど違いだと思った。もう一度あの亡霊に、自分は勝徳からどんなにひどい目にあっているか。そして自分を哀れに思ってくれるなら、勝徳をこの世から葬り去ってくれることを本気でお願いしようと考えていた。
 市の無縁墓地に立った直己の前にまた呪言の亡霊が現れた。今度は直己も驚きはしなかった。呪言は言った。「お前は随分勝手な奴だな。自分が手を下していなければ罪がないとでも言うのか。」
「止めてくれよ。僕はもう死んだも同じだよ。勝徳には脅かされ、おまけに変な亡霊にまで付きまとわれ、自分の居場所がないも同然なんだぞ。」
「じゃどうだいお前の望み通りに、お前の願いを叶えてやろうか。」
「そうしてくれよ。そのためならどんな犠牲だって払うよ。」
「何もお前から求めはしないさ。こうしてお前と交信できることで、すでに私の気持ちは和らいでいるからな。言っておくが、私は人に祟りを与えるようなことはしない。しかし人に憑依すことによってお前の復讐を完結することができるかもしれん。」
彼の姿を見ている人がいたら、おかしいと思っただろう。直己は目に見えぬ相手に話していたからだ。
 彼は子供のころから、一人でほって置かれることが多かった。そんな時、自然と目に見えぬ何かと話していたり、空想の世界に身をおくことがよくあった。玲子は身勝手な性格だったので、母性があふれ出るばかりに、彼を愛してくれることもあったが、他に愛人ができると豹変して彼に見向きもしなかった。そんな時に直己の面倒を見てくれたのは祖父の喜八だった。幼い直己をお風呂に入れたり、夜鳴きをする時は外に出てあやすなど男の人にしてはまめにかいがいしく面倒をみてくれた。
 玲子はそんな祖父に感謝の情を表すことはなかった。
玲子は、たいした稼ぎもなく一生馬車馬のように働き、最後には娘に食べさせもらわなくては生きていけない喜八を馬鹿にしていた。この人の一生は何だったの、私はそんな一生はご免だわ。ちょっと頭を使えば、どんなに悪い環境だってそこから這い出せるものよ。玲子は喜八を反面教師にして生きてきたのだった。

呪言の亡霊とたわいもない話をした後日、気にもとめないことだったが何度かぬるぬるした舌が直己の体を這うような感触を感じたことがあった。
 夜の帳が下りた公園のベンチに直己は立っていた。その公園は同性愛者のハテン場といわれる所で気に入った相手を見けるところだった。見つかればカップルになったもの同士、近くのホテルかどこかに消えていった。
 若い直己は管理職風のサラリーマンやいかにも水商売風のなよっとしたタイプの男達に声をかけられたり、熱い目線で誘われたりした。直己の待っていたのは黒野純也という男だった。黒野は優秀な証券マンだったが己の力を過信しすぎて、バブルの時に無理に株を買い進めて会社に莫大な損失を与え、証券業界から消えていった。
 表舞台から姿を消した彼だったが裏社会で悪知恵を働かせて生きていた。黒野さんと呼び止められた黒野は驚いた。こんな場所で自分のことを知っている奴がいる。黒野は急ぎ足でその場所を去ろうとした。「待ってくださいよ。相変わらず逃げ足だけは速いだから・・・。」 
「お前は誰なんだ!」 
「もうお忘れですか?薄情なんだから、もっとも私もあなたの、口車に乗ってしまったのも悪かったんだが、あははは。」
「俺はお前のようなガキを騙したことはない。」
「愛したことはあってもですか。」
 黒野はどっきとした自分の性癖まで知っているこの少年は誰なのだと思った。
「黒野さんお願いがあるんですよ。」
 腹の出てきた冴えない中年男にお願いがあるだって・・・、と彼はドキッとして下半身が熱くなるの感じた。これは黒野の幻想的な勘違いもあったのだが、何れにしろ直己は彼にあることを引き受けさせることができた。
 青葉建設の応接室にスーツ姿でビシィと決めた黒野がそこにいた。社長の源蔵に差し出した名刺には某証券会社の経営コンサルタントと印字されていた。津村建設は九割近くまで公共事業に頼る会社であった。公共事業の受注は年々減る一方で、赤字は増える一方だった。
「今日は優良バイオ企業への投資のお話に伺いました。」
「馬鹿を言え、自分の会社の資金繰りが底を突いているのに投資だと」
「そんなこと心配なさらなくても、銀行に融資させるんですよ」
「お前正気か」
「わかってますよ。今の御社の状態では、鼻もひっかけてくれないことを」身も知らずの男にここまで言われたことに源蔵は憮然とした。しかし黒野はひるむこともなく話を続けた。
「それなら、融資を引き出せるようにすれば、いいだけのことですよ。」自信たぷりに淡々と言ってのけるこの男は何者なんだという驚きの表情を源蔵は浮かべた。黒野はその表情から自分のペースにはまってきたことを確信した。
「あとは、営業成績を水増し、前年度納税額の改ざんし、念のために地元の銀行ではなく隣の県  の銀行を今度、御県に進出するとか言って融資を申し込めば大丈夫です」と理路整然と融資引き出しの手口を力説した。源蔵は真面目な経営をしていたので、そういう詐欺まがいのことはしたくなかったが、このままではいずれ会社の倒産は目に見えていた。嘘も方便、借りたものはちゃんと利子をつけて返すのだしと自分を納得させその話にのることにした。
しかし、融資の話がうまく入ったとしても、前つば話である以上、負のスパイラルが始まりでしかなかった。
 直己はホームレスを襲撃した日を忘れるこはできなかった。あの日は、勝徳は、彼女の紗江子と何があったのか、かなり荒れていた。紗江子は、彼が何度もアタックしてやっと彼女にしたマジで付き合う女の子だった。あの傲慢な勝徳が紗江子の前では、ひょうきんなことを言ったり、お菓子やジュースを買いに走ったりと実にかいがいしく動いていた。紗江子は彼が知る限りのどの女の子よりも清潔感があった。彼女の前では猛牛も優しい子羊に見えた。その彼女と何かあったということは勝徳にとってすごくヤバイことっだ。
 楽園を追われたユダのようにおどおどしていた。一方でそんな弱い自分を認めたくないと言う気持ちが吹き上げていた。意地悪い目つきで辺りを見渡し、自分のより弱いものを攻撃することで自分の強さを誇示しようとしていた。そこに勝徳の眼にとまったのがボロボロの黒いローブを身にまとい道行く人に、あなたの前世は何だとか、ぶつぶつと言っている呪言だった。薄汚いクズが、何をほざいているんだ。勝徳はからかうつもりで、おい俺の前世は何なんだよ。爺さんと 声をかけた。お前は血に飢えたヒルだよ。馬鹿やろう!舐めんなよ。勝徳は一発食らわしてやろうと思ったがやめた。こんな通りで騒ぎを起こしたらヤバイことになると思った。血走ったあの気味の悪い目つきで、呪言を睨んだ。いいかクズ野郎、お前が俺をどれ程怒らしたか、たっぷり思いしらしてやるからなと呟くとその場を去った。
その夜だった。バットを握った勝徳が、小見川橋の上かちらちら燃える焚き火の傍でうごめくホームレス達を見ていた。勝徳に呼び出された直己の手には灯油の入ったポリタンクがあった。最初は、勝徳はいつものように脅かすだけだったの、うぷん晴らしのつもりだった。しかし呪言は、勝徳の脅しに怯むことなく、闇の中にただ立っていた。泣き喚き、ひれ伏す場面を想像していた勝徳にとって意外なものだった。呪言の眼は勝徳を哀れむように見つめていた。それは、勝徳をさらに怒らせた。くそ、何様と思っていやがると勝徳が呟いた瞬間、彼の手に握られたバットが呪言に向かって振り下ろされた。バシャバシャという音がして、あたりに油くさい臭いが立ち込めた。真っ赤な光が闇の世界を照らしだし、めらめらと炎がダンボールハウスへ走った。
源蔵は銀行からの融資には成功したが、投資の話は黒野のまったくの出たら目話で借りた金を返す目途すら立たなかった。自分自ら詐欺を働き、その金を詐欺師にみんな持っていかれたのだ。とんだお笑い種だと自分の愚かさを自嘲するしかなかった。
その時、二階の勝徳の部屋から酒に酔った声がした。源蔵はその声のする部屋のドアを開けた。部屋には、べろんべろんの酔って訳のわからないことを言っている勝徳が、ビールの空き缶と一緒にが床に転がっていた。勝徳はあまりの情けなさに、この不肖の息子を引っ叩くしかなかった。この馬鹿野郎が・・・。源蔵は息子を殴りながら涙が溢れきた。こんなにも俺の息子は壊れていたのか。俺が息子のことをもって見ていれば、こんな姿を見ることもなかっただろうと源蔵は思った。叩かれたショックで目覚めた勝徳が、訳もわからず源蔵の胸倉を掴んだ。この馬鹿親父が・・・。二人は取っ組み合い、お互いに力と力でぶつかり合いながら床を転がった。力尽きた二人はどちらともなく手を緩め、床の上に大の字になり天井を見上げていた。
 源蔵は荒げた息をととえながら、力だけは自分より勝てきた息子を頼もしく思い、しかし心に中はまだまだ子供なんだと思うといとおしいような感じを覚えた。 おっしこと言うと勝徳はのろのと立ち上がり、廊下へと出て行った。次の瞬間、源蔵のささやかな幸せを打ち砕くことが起こった。階段の方から何かが転がり落ちるような鈍い音がし、源蔵が部屋から飛び出し見たものは、階下へ転落した勝徳の姿だった。源蔵は勝徳を抱き起こし、何とか言ってくれ、今先まで元気だったじゃないか・・・と狂ったように叫んだが何の反応もかえってこなかった。暗い闇の迷路を俺の息子を生き返らせてくれと叫びながら、漂うように歩いた。こたえる者もなくその叫びは空しく響くだけだった。自分が一番大切にしなければなれないものが、何だったのかを気づいた時、それは紙のようにひらひらと飛んでいった。源蔵は、昔自分が母に歌ってもらった子守唄を息子に歌ってやった。ねんねこしゃさりませ、寝る子は育つ・・・。小さかった頃に歌ってやりたかったな・・・、お前の喜ぶ顔がもっと見たかったな・・・。
源蔵は突き上げてくる悲しみが、すべてのものを洗い流しすべてのものがニュートラルなっていくように感じた。源蔵は軽くなった息子を車に乗せ、勝徳と一緒に一度だけ行ったことのあるキャンプ場へと車を走らせた。 
 津村親子が姿を消してから、数年が経とうとしていた冬、直己は玲子のけたたましい声で目が覚めた。玲子の持っている新聞を覗くと、行くへ不明の父子 山中で発見 という見出しが飛び込んできた。玲子は何も言わずに手を合わしていた。直己もそれに従うように手を合わせた。台所の流しには、相変わらず食器が積み重ねられたままだった。昨日までと何もかわらない日常がそこにはあった。ただ一つだけ違うのは、少なからず因縁のあった津村親子はもういないということだけだった。

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