殺してください

著:星新二

六月十八日(月) 天気:雨

 今日も雨だった。梅雨らしい生暖かい風が不快で仕方がない。一体、いつまでこのじめじめした天気が続くのだろう。仕事のほうは変化なし。新入社員の私語がやや耳障り。今日はもう書くことなし。

 うんざりしたようなため息をついて、田中はペンを置いた。今日も同じことを書いてしまった。いらだちまぎれに、日記帳のページをぱらぱらとめくってみる。どのページをめくってみても、書いてあることはほとんど同じ。唯一変化が期待できる天気も、梅雨空のせいでここ一週間はずっと雨。こんな平凡な日記しか書けないような生活をしているのは自分であるから、なおさら腹立たしい。
 携帯電話のアラームが鳴った。アラームをとめて液晶に表示された時間を見ると、十一時になっていた。携帯電話をベッドの横に置き、日記帳を閉じた。
 手際よく寝る支度を整えている自分に、田中は苦笑した。眠る時間までアラームに管理されているのか、俺は。もともと人付き合いが得意ではなく、誰も電話をかけてこなければ、メールもやらない。たまに事務的な電話をかけるだけではもったいないからとアラームを設定したのだが、今では完全にアラームに支配されている。起きる時間はもちろん、食事の時間も、帰宅する時間も・・・。
 ベッドに横になって間もなく、田中は規則的な寝息をたてはじめた。

六月十九日(火) 天気:曇り

 今日はめずらしく雨が降らなかった。時折晴れ間さえ見えたほどで、ここぞとばかりにたまった洗濯物をベランダに干している主婦の姿があちこちで見られた。その光景もこの季節にしてはめずらしいが、さらにめずらしいことがあった。俺宛に手紙が届いたのだ。年賀状さえろくにもらったことのないこの俺に、一体誰が手紙を送ったのだろう。まだ開封はしていないが、明日の日記には手紙の感想を書けるだろう。

 ここまで書いて、田中はゆっくりとペンを置いた。ひさしぶりに晴れ間が見えて、日記にも変化がついた。そういう小さな変化でも日記を書く側には喜びとなる。それに、この手紙も・・・。
 田中は机の引き出しを開けると、中に入れてある一通の手紙を取り出し、しげしげとながめた。
 この手紙、確かに宛名は自分になっているが、差出人の名前はない。灰色の封筒という地味な色遣いだが、事務的な手紙だろうか。
 田中はあくびをかみ殺しながら手紙の封を開けた。本当はもう寝たいのだが、このまま寝てしまったら手紙の内容を確かめることは永遠にないような気がしたのだ。それに、携帯電話のアラームが鳴らないうちはやはり眠れないのだった。
 「殺してください」。真っ白な紙の中央に、この言葉だけがぽつんと書かれていた。震えた字体で、余命幾ばくもない老人が最後の気力にまかせてかろうじて書いたような字だった。
 この奇妙な手紙を、田中はしばし首をかしげた。かなりインパクトのある言葉だが、リアリティのある現実としてとらえられなかった。まるで夢の中のワンシーンを見ているような感じだった。なにしろ、まったく身に覚えがないのだから。長く生きていれば、知らず知らずのうちに誰かに恨まれることもあるかもしれない。実際、それがもとで殺される人間もいる。しかし、自分から殺してほしいと申し出るような人間は世界中どこを探してもいないのではあるまいか。少なくとも自分は、たとえどんなに気が狂ったとしてもこんな真似は絶対にしないだろう。
 就寝時間を告げるアラームが鳴ったので、奇妙な手紙についての思考はうち切られた。どこかの悪ガキのいたずらだろう、とまったく根拠のないかせつをたてて、田中はベッドに入った。
 翌日は日曜だったので、二時間遅くアラームが鳴った。休日の二時間遅い眠りを十分に楽しんだ田中はすがすがしい気分でベッドから起きあがった。まどからは春のやわらかな陽射しが差し込んでいる。小鳥のさえずりも聞こえてきた。
 田中は枕元にある灰色の封筒を手に取った。中の紙を取り出し、もう一度ゆっくりとながめてみる。たった一言書かれていた「殺してください」の文字が消えている・・・はずもなく、昨日とまったく同じ場所にその一行は書かれていた。文字の震え具合もそのままで、昨日とまったく同じ文体に田中は妙な安心感を覚えたのだった。
 田中一男様、という宛名の文字が目に入って、田中はかすかに苦笑した。日本人の平凡な名字と名前を合体させたようなおそろしく個性のない名前。その平凡さに自分でも腹が立つ。字面も何だか弱々しい。顔も平凡なので、名前はもちろん顔すらもなかなか覚えてもらえない。せめて容姿だけは個性的にしようと、髪を茶色に染めてみたり派手な服を着てみたりしたが、ばかばかしくなって途中でやめた。ともあれ、平凡というなの個性だけは永遠に手に入れたようだった。
 さて、体もだいぶん目覚めてきたし、散歩にでも出かけようか。そう思い立った五分後には、田中はもうスポーツウェアに着替えて寝室から姿を消していた。
 朝のすがすがしい空気をたっぷりと吸い込んで、田中はそれをまた一気に吐きだした。たまっていたよどんだ空気がすべて入れかわったようで気持ちがよかった。
 休日の朝にはこうして近所をゆっくりと散歩するのが田中の唯一の楽しみだった。効率第一の競争社会の中に心の安らぐ時間はあるはずもなく、こうして草花や穏やかな川面をぼんやりと眺めている時だけが、彼にひとときの安らぎを与えていた。
 いつものように川縁の草地に腰を下ろして、田中はバッグから画用紙を取り出し、両膝の上に置いた。画用紙と一緒に取り出した二十四色入りのクレパスのケースは草の上にじかに置いた。そして、しばらく無言で目の前の自然をじっくりと観察する。
 こどものころから絵を描くのは好きだった。特に、写生に強いこだわりをもっていた。見えるものを見える通りに紙に書いていくという作業の中に人生の真理があるのではないかと、こどもながらに感じ取っていた。「現実から目をそらしてはいけない」という父の教えの影響もあるかもしれない。社会人になってから毎日日記を書き続けているのも、もとをたどれば結局はそこにつながっているような気がする。
 中学に入り、周りの男子がアクションマンガやSF小説のたぐいに夢中になっているのを冷たい目で見ながら、田中はひたすら写生にこだわりつづけた。決して、現実とはかけ離れたありもしない空想話を読もうとは思わなかったし、ましてや書く気にはとうていなれなかった。そんな態度がもとでクラスから孤立してしまっても、田中はいっこうに気にしなかった。
 田中が中学を卒業するころ、世間は心霊ブームのまっただ中だった。その熱狂ぶりを相変わらずの冷めた態度で傍観していた田中は、ブームに反発するように某大学の理工学部に進んだ。科学者になって、このくだらないブームを終わらせてやる、と最初は息巻いていたものの、心霊ブームを単なる娯楽としかとらえていない教授たちに嫌気がさし、たったの半年で大学を中退。その後はアルバイトで何とか食いつないでいたが、生活はぎりぎりだった。今の会社に拾われなければ、今ごろはどこかのガード下で段ボールを広げていただろう。
 ふいに携帯電話が鳴ったので、絵に集中していた田中の意識は現実に引き戻された。アラームを間違えて設定したのかと思い液晶画面を見てみると、着信画面に切り替わっており、見知らぬ番号が表示されていた。誰からの電話だろうと考える前に、田中は通話ボタンを押していた。  
「もしもし」
 少し緊張した声で、田中は言った。
「田中一男君だね?」
 低く、くぐもった感じの声が聞こえてきた。
「はい、そうですが。どちら様ですか?」
「孤独な老人とでも言っておこうか」
 たちの悪いいたずらか。そう思って、田中は電話を切ろうとした。声だけ聞いた限りでは老人のようだ。どこかの退屈な老人が道楽のつもりでこんな悪趣味ないたずらを思いついたに違いない。
「僕は今忙しいんです。この電話は切りますよ」
 強い調子でそう言って、田中は赤いボタンを押した。これでまた絵に集中できる・・・はずだった。しかし、電話は切れなかった。液晶は相変わらず通話画面になっていて、通話時間が刻々と加算されている。
「もしや、電話が切れなくてお困りかな?」
「ど、どうして電話が切れないんだ!」
 冷静に考えれば、電話を耳から離した状態で相手の声が聞こえるはずがない。そんな単純なことにも気づかないほど、田中は動揺していた。
「このぐらいで驚いてくれるとは光栄だね。では、さらにすごいものを見せてあげよう」
 という老人の声が聞こえたかと思うと、携帯電話の液晶画面が不気味な光を放ちはじめた。状況を整理する間もなく、田中の体は浮き上がり、彼の体は携帯電話の画面に吸い込まれてしまった。携帯電話はポトリ、と音を立てて地面に落ち、草の上に置き去りにされた真っ白な画用紙はなぜか悲しそうに青い空を眺めていた。

 背中に鈍い痛みを感じて、田中は起きあがった。
「ここは・・・」
 あたりを見まわすと、うっそうとした緑が遠目に見えていた。そして目の前には、どう見ても廃墟にしか見えないさびれた小屋があった。
「いらっしゃい。けっこう時間がかかったね」 
 半分壊れかかった扉を開けて、一人の老人が現れた。骸骨を連想させる彼の容貌に、田中は恐怖を感じた。
「あなたは・・・?」
 怯えたような目つきで、田中は老人を見た。
「手紙を送ったんだが・・・届いたかね?」
 手紙という言葉に、田中は敏感に反応した。
「手紙って、まさか・・・」
 田中の顔が見る見る青ざめていく。
「どうやら読んでくれたようだね。やり方がちょっと強引すぎたような気もするが、結果的には君もきてくれたわけだし、まあいいとしよう」
「冗談じゃない。あんたが勝手に連れてきたんでしょう。こんなところであんたと話してるひまはないんだ。さっさと帰らせてもらいますよ」
 乱暴にそう言うと、田中は老人に背をむけて歩き出した。
「帰ろうったって無駄じゃよ。一度ここにきたものは二度とここから出られないのだから。まあ、すぐにわかるだろうがね」
 老人の忠告を無視して、田中は歩きつづけた。後ろを振り返ることは一度もなかった。廃屋からかなりはなれたあたりで、老人のひときわ大きな声が聞こえた。
「若者よ、また会おう!」

 もう何時間歩いただろうか。田中の感覚ではもう夕方になってもいいころだというのに、太陽はまったく位置を変えていない。太陽の光で足元が常によく見えるのはいいのだが、直射日光が容赦なく体力を奪っていく。まだ春とはいえ、まともに陽射しを浴びるとやはり暑い。まわりの美しい緑を眺める余裕すら、田中には残されていなかった。
 激しい頭痛に襲われて、田中はその場にうずくまってしまった。幻聴も聞こえてくる。エコーがかかったようなはっきりしない言葉の嵐が田中の耳を襲う。たくさんの幻聴の中から、田中はある言葉を聞き取った。
「殺してください」

 気がつくと、田中はベッドの上にいた。恐る恐る目を開けると、そこには見慣れた光景が広がっていた。少しの汚れもない真っ白な天井があり、枕元には壊れかけの目覚まし時計があった。自分の家にもどってこれたという安堵感で、田中はため息をついた。
 ここまでの経緯はよくわからないが、とにかく自分の家に戻れたのだ。きっとどこかの親切な人がここまで運んでくれたのだろう。あの場で行き倒れにならなくて本当に良かった。それにしても、あの老人は一体何者なのだろう。相当不気味な目つきをしていたが。携帯電話の画面に吸い込まれたのもあの老人の力だったのだろうか。いずれにしても、自分にはもう関係のないことだ。あの老人に会うことは二度とないだろう。そう考えただけでも気分が明るくなる。
「気がついたかね?」
 という聞き覚えのある不気味な声が聞こえ、田中は青ざめた。少しの汚れもなかったはずの真っ白な天井は朽ち果てた木のそれに変わり、窓から見える景色もうっそうとした緑に変わった。自分の寝ているベッドもほこりをかぶったかびくさい布団に変わっていた。
「どうしてここに?」
「君があの森で倒れているところを私がここまで運んできたのだよ。君の体を担いでここまでくるのは老体にはちときつかったがね」
 老人は唇の一端をつり上げて笑った。その不気味さに、田中は思わず目をそむけた。
「水がほしいだろう。あの暑い中で何時間も歩きまわったのだからね」
 いかにも愉しそうに笑うと、老人は奥の部屋に消えた。蛇口をひねる音が聞こえ、つづいて水の流れる音が聞こえてきた。それが聞こえなくなったかと思うと、老人が水の入ったコップをもってた中の前に現れた。警戒心もあって、田中は布団から半身を起こした。
「喉がかわいとるじゃろう。遠慮せずに飲め」
 そう言って、老人は田中にコップをさしだした。田中は一瞬躊躇したが、背に腹はかえられず、老人からコップを受け取った。そして、注がれた水を一気に飲みほした。
 普通の水だった。いやむしろ、都会のカルキくさい水よりもずっとおいしい。警戒していただけに、田中は妙な安堵感を覚えた。
「一気に飲んじまったな。もう一杯飲むかい?」
 うん、とうなずきかけて、田中は我に返った。こんなところにいつまでもいるわけにはいかない。こんな不気味な老人と一緒にいたらこっちまで気が狂いそうだ。
「お水、ありがとうございました。僕はもう帰ります」
 あまりはっきりしない声でそう言うと、田中は立ち上がってあってないような玄関にむかった。しかし、
「また同じ目に遭いたいのか!」  
 と老人に一喝され、田中は動けなくなった。何か見えない力で体が支配されているようだった。
「大人しくしてくれんか。手荒なことはしたくないのでね」
 老人は不気味に笑った。
「一つお聞きしたいことがあります」
 感情を押し殺した低い声で、田中は言った。
「何だね?」
「どうして、僕をここに連れてきたのですか」
 なんだそんなことか、とでも言うように、老人は鼻で笑った。
「世の中には運というものがあるだろう。運命のいたずらで一夜にして大金を手にするものもいれば、どこかのガード下で段ボールを広げて暮らすものもいる。それと一緒じゃよ」 
 田中はしばらく老人の言っていることが理解できなかったが、やがて怒りが込み上げてきた。
「つまり僕は、あなたの単なる気まぐれでここに連れてこられたんですか?」
「気まぐれではない。君をここに呼んだのには理由がある。まあ、今にわかるがね」
 そう言って、老人はいたずらっぽく笑った。
 突然、田中はひどい吐き気に襲われた。体中の臓器が口から出てしまいそうで、田中はその場に倒れ込んでしまった。間もなく、田中は口から小さな玉のようなものを吐きだした。
「こ、これは・・・」
「それがお前の若さだよ。お前がさっき飲んだ水の中に、若さを吸い取る薬を混ぜておいたんだよ。その小さい玉にお前の若さが詰まっているんだよ」
 弱った子牛をいたぶるように、老人は言った。
 立ち上がろうと床についたてがしわだらけなのを見て、田中ははっとした。自分の体重を支える力もなかった。老人は田中の手から玉を抜き取ると、それを口に入れた。
「若さをくれたお礼に、君をここに呼んだ理由を教えてやる」
 若さをすべて吸い取られ、完全に老人と化した田中に、老人は言った。その口元には冷酷な微笑みが浮かんでいた。
「信じられんだろうが、半年前まではわしも君と同じサラリーマンだった。歳だって君とそうかわらん。会社ではそれなりの地位を得て、生活も安定していた。このまま無事に定年をむかえられると思っていたよ。あの手紙がくるまではな」
 老人の声はかなり若々しくなっていた。糸のように細い白髪のかわりにふさふさとした黒髪が生えはじめ、しわだらけだった手は血色がもどっていた。数分前の自分を見ているようで、田中は老人から目をそむけた。
「あの手紙のせいで、俺の人生はくるっちまったよ。いたずらだと思って無視してたら、今度は妙な電話がかかってきてね。このあとはわざわざ話さなくても、あんたにもわかるよな」
 目の前に立っている男は、もはや老人ではなかった。若さを手に入れて勝ち誇っている。それとは対照的に、田中はすべての気力を失ってぐったりしていた。
「もうわかってると思うが、森を絶対に抜けられないというのは嘘さ。森は簡単に抜けられる。若ささえあればな」
 男の言葉を理解する力など、田中には残されていなかった。意味不明な雑音だけが通り過ぎていく。
「ここを抜けて、俺は人生をやり直すんだ。あんたには気の毒だがな。・・・そうだ、若さを吸い取る薬のレシピを残していってやるよ。材料はこの森で手に入るものばかりだ。レシピはこの小屋のどこかにあるはずだから、頑張って探すんだな」
 そう言って、男は愉快そうに笑った。
「そろそろ俺は行くぜ。こんなところに長居しても時間の無駄だからな」
 衰弱状態の田中を残して、男は小屋を出ていった。
  
 もう何日たっただろうか。一時は死を覚悟した田中だが、やはり生きていたいという思いが強く、今はある決意をもって机にむかっている。
 もうこれしかない。そう思って、田中は万年筆を手に取った。そして、真っ白い紙に震える手でこう書きつけた。
「殺してください」

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