腹ぺこ社長
男は緊張した表情で、F社の廊下を歩いていた。大きな商談の時はいつも緊張するのだが、今日は特に緊張している。
「社長室」と金色の派手な字体で彫り込まれたドアの前で、男は立ち止まった。そして、体中の空気がすべて入れかわってしまいそうな深呼吸を一つすると、男はドアを開けた。
なかにはいると、いきなり社長と目があった。いかにも高級そうな社長椅子にふんぞり返って座っている。その後ろには三人のボディガードがまるでフリーキックの壁のように立っていた。三人とも真っ黒なスーツに身を包んでいて、おまけにサングラスまでしていた。
「し、失礼します。Mツーリストから参りました」
強烈な威圧感に圧倒されながら、男は言った。
「さすが営業マンだ、約束の時間より十分も早い」
男の全身を値踏みするように眺めて、社長は言った。
「まあ、とりあえずそこの椅子に座りたまえ」
と社長が言った。男は社長が勧める椅子に座った。社長とちょうど向かい合う恰好になった。
「さて、商談のほうなんですが……」
さっそく本題に入ろうとする男を社長は手で制して、
「まあ待て。その前に君に見せたいものがある」
そう言って、社長は指をパチンと鳴らした。すると、十秒とたたないうちに見た目にも豪華な料理が次々と運ばれてきた。それらはボディガードたちの手によって手際よくテーブルに乗せられ、部屋は一瞬のうちにディナー会場のようになった。
「料理を食べながら話を聞こうじゃないか。腹が減ってはなんとやらだからな」
と社長が言った。早くもローストビーフを一切れ頬張っている。
「それで、君の社が出した条件は何だね?」
少し大きめのローストビーフをワインで飲み下しながら、社長は言った。
「我が社のプランは、満腹コースとリラックスコースの二種類があります。特に、今の季節はリラックスコースをお勧めしています。こちらのコースには温泉をお付けしておりますので、慰安旅行に最適です」
男が熱心にビジネストークを披露している間も、社長はディナーを黙々と口に運んでいた。男のプレゼンテーションなど耳に入っていないようだったが、時折小さく相槌を打つので、男は話しつづけなければならなかった。
「しかし料金がねえ。Kツーリストは同じ内容のツアーをこれの二割引で出してきたぞ」
口をせわしなく動かしながら、社長は言った。ローストビーフはもうすべて平らげ、残るのは一皿だけとなった。
「当社としましてもできる限りの努力はさせていただいておりますが、貴社のみなさまに安全で快適なツアーをお楽しみいただくためには、このお値段が限界です」
と男は言った。男の皿にはまだローストビーフがわんさと盛られている。
「だがねえ……。うちもいま苦しいんだよ。だからといって慰安旅行をなくすわけにもいかんしね。もう少しなんとかならんのかね」
最後の一皿もきれいに完食して、社長は言った。
「そうおっしゃられましても……」
と、すっかり困り果てた表情で男は言った。豪華なディナーを食べ終えてもまだ満足しない社長は、次の料理を催促するために指をパチンとならした。だが、料理はいっこうに運ばれてこない。
「どうしたんだ。早く料理を運んでこい!」
と社長は怒鳴った。一人のボディガードが恐る恐る耳打ちする。
「なんだと!わしがこの程度の量で満足すると思うのか!」
社長の顔が見る見るうちに赤くなった。ボディガードはただひたすら頭を下げている。
「いい加減にしてくれ!もう我慢できん!」
社長はもう発狂寸前だった。転々と、次の瞬間、信じられないことが起こった。社長の着ているスーツが派手な音を立てて裂け、今まで腹だと思っていたところに大きな口が現れたのである。あまりの衝撃に、男は持っていたグラタン皿を床に落としてしまった。
「まずはお前からだ!」
まるで野獣のような声で、社長は言った。すると、さっきまでしきりに頭を下げていたボディガードが社長の腹(と言うか口)に吸い込まれてしまった。大きな口は食物を咀嚼するために二、三度大きく上下に動いたあと、何事もなかったかのように静かになった。
「さて、商談に戻ろうじゃないか」
社長は平然と言った。男はこの場から逃げ出したかったが、営業マンの性だろうか、パンフレットを無意識のうちに手にしていた。
「か、かしこまりました。お値段の方はもう少しお安くさせていただきます」
震える声で、男は言った。
「よろしく頼むよ。それはそうと、まだ何か物足りないな……」
と社長が言った瞬間、それまでおとなしかった口の動きが急に激しくなった。それを見たボディガードの顔が見る見るうちに引きつっていく。
「次はお前だ!」
と社長が言った。ボディガードは引きつった表情で大きな口に吸い込まれていった。
「さっきのやつのほうが旨かったな」
と社長は言った。大きく開いた口は満足そうに上下運動をくり返している。
「さて、何の話だったかな」
何事もなかったかのように、社長は言った。最後に残ったボディガードは顔を青くして立っている。
部屋にいる人間が一人ずつ消えていくことに、男は恐怖を覚えた。一刻も早くこの部屋から出なければ、あの底なしのブラックホールに飲み込まれてしまう。そして、ここから抜け出す方法はただ一つ。この商談をうまくまとめることだ。最後のボディガードが食べられないうちに、はやくこの商談をまとめなければ……。
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