ガリ勉君のダジャレ
マナブは、通いなれている通学路をいつものように英語の参考書を読みながら歩いていた。
「discovery、発見」
英単語を何度も繰り返し呟きながら、一つ一つ確実に頭に入れていく。
「expectation、期待」
これで98個目。あと二単語覚えれば通学中のノルマは達成だ。
「danger、危険」
これで99個目だ。さて、最後の一つは……。
「危ない!」
突然大きなクラクションが聞こえ、マナブは初めて参考書から目をはなした。
「ちゃんと前を向いて歩け!」
音のするほうに顔を向けると、トラックの運転手が顔を真っ赤にして怒鳴っていた。
「ここがどこだかわかってんのか!」
気がつくと、マナブは横断歩道のど真ん中にいた。どうやら信号無視をしたらしい。なるほど、それでこのおっさんは怒っているのか。まるで他人事のように状況を把握して、マナブは参考書に目を戻した。そして、何もなかったかのように無言で歩き出した。
「おい、聞いてんのか!」
運転手の怒鳴り声も耳に入らない。
「interruption、妨害」
よし、これでノルマ達成だ。
教室のドアの前で、マナブはチラッと腕時計を確認した。八時四分。横断歩道でのくだらないアクシデントのせいで学校に着くのが四分も遅れてしまった。いつものことだが、廊下には人の気配がまったくなかった。
いつものように姿勢をぴんと正して、マナブはドアを開けた。ガラガラという音が誰もいない教室にやけに大きく響いた。これもいつものことだが、マナブはドアを開けたままにしておいた。ドアを閉めておくと、誰かが入ってきた時にドアを開ける音で集中力が途切れてしまうのだ。雑音のする要素はあらかじめ取り除いておく。これが勉強の鉄則だ。
マナブは廊下側の一番角の席に座った。この席は入り口に一番近いので、朝の勉強時間をより多く確保できる。マナブは壁にかかっている時計を見た。八時五分。ホームルームまであと三十五分しかない。かすかな焦りを感じて、マナブは通学中に読んでいた英語の参考書をふたたび読み始めた。
「progression、進歩」
一つの単語を必ず三回くり返して、確実に頭にたたき込む。忘却は最大のタイムロスなのだ。
「shortage、不足」
頭の悪い受験生は何でもノートに書き込もうとするが、マナブはそんなことはしない。教育熱心なマナブの両親は、彼がまだ幼かったころ、まったく関連性のない百個の単語を毎日覚えさせた。その単語は朝食後に父から口頭で一度だけ言い渡され、夕食前のチェックで完璧に覚えていなければ、その日は夕食抜きになるのである。そんな両親の厳しい訓練のおかげで、マナブは抜群の記憶力を手に入れた。
チャイムが鳴って学ぶが参考書を閉じるころには、教室はクラスメイトのしゃべり声でざわついていた。
となりに座っている関が机に乱暴に足を置いて、
「今のがホームルーム開始のチャイムだろ?あの野郎いつもくるのおせえよな。オレらには毎朝早くこいとか言ってるくせによお」
と悪態をついた。そして、いきなり机を蹴飛ばして立ち上がると、
「ああもう、やってられねえ。保健室に行ってくる」
と言って教室を出ていった。そんな彼を注意する生徒は誰もいなかった。
それからまたかなりたって、担任の西田がやっと教室に入ってきた。生徒がだらだらと席に着く。
「授業が始まるから、出席だけ取って終わりにするぞ」
独り言のようにそう言うと、西田は淡々と出席を取りはじめた。教室はまだざわついている。
「瀬川はカゼだって言ってたな。……関」
「関君なら保健室に行きました」
クラス一世話焼きのリカが言った。
「また保健室か。しょうがないやつだな、まったく。……関本」
「はい」
自分の名前が呼ばれたので、マナブは返事をした。すぐ後ろでは女子の仲良しグループが最近始まったテレビドラマの話題で盛り上がっていた。
「渡辺もカゼだったよな」
そう言って、西田は最後列の一番角の関をチラッと見た。
「以上でホームルームは終わり!今日も真面目に勉強するように」
だれも聞いていないいつもの決まり文句を言って、西田はさっさと教室からで出ていった。一時間目の担当の久保田の姿が見え、西田は閉めかけたドアをまた開け直した。
3時間目は英語だった。前の時間までいなかった関が、今は大人しくマナブのとなりに座っている。だが、机の上にはノートはもちろん、教科書すら出ていない。
英語教師の奥村が黒板にやや長い英文を書いている。チョークをもつ細い手が動くたびに豊満な胸が揺れ動き、ロングスカートからちらりとのぞく細くて白い足がやけになまめかしく動く。そんな奥村の姿を、関はニヤニヤしながら眺めていた。
英文を書き終えると、奥村は黒板に背をむけた。
「この英文を和訳してください」
「はい!」
関が元気よく手をあげた。マナブは眉をひそめた。本当にできるのか、こいつ?
「じゃあ、関君」
関は黒板へと歩いていった。奥村がチョークを渡そうとした時、事件は起こった。
「キャッ!」
という奥村の悲鳴で、それまでざわついていた教室が一気に静かになった。参考書を読むのに集中していたマナブも教壇の方を見た。
関の手が奥村の豊満な胸をしっかりとつかんでいた。あまりの衝撃に、奥村は関の手を振り払うこともできないようだった。
「悪い悪い。ちょっと手がすべった」
関は悪びれる様子もなく笑った。奥村はやっと教師の表情を取り戻して、
「何をするの!授業を妨害するのなら出ていきなさい!」
と怒鳴った。しかし、関は反省する様子をまったく見せない。
「真面目に勉強しようとしてる生徒にその言い方はないんじゃないの?俺にだって授業を受ける権利はあるでしょう」
「だったら大人しく席に座ってなさい!」
奥村はもうほとんどヒステリー状態になっていた。
マナブはイライラしていた。お前のくだらないおふざけのせいで授業時間がどんどん無駄になるじゃないか。真面目に勉強している人たちに迷惑だ。ここは学級委員としてびしっと注意しなければ。
「いいかげんにしないか」
椅子からさっそうと立ち上がって、マナブは言った。それまで奥村の胸の谷間をいやらしく見つめていた関は、体の向きをくるっと変えてマナブをにらんだ。
「なんか文句あんのか?」
ヤクザばりのドスのきいた声で、関はすごんだ。その顔からはさっきまで見せていたおちゃらけた表情は完全に消えていた。
「問題に答える気がないのなら、大人しく席に戻りたまえ」
マナブは精一杯の低い声で言った。額には変な汗が浮かんでいる。
「何でお前がそんなえらそうな口きくんだよ」
「が、学級委員だからさ」
二人はしばらくにらみ合った。マナブのひざはがくがく震えていた。奥村だけでなく、教室にいるすべての生徒がこの事態の行方を固唾をのんで見守っていた。
「何が学級委員だ、えらそうに。ガリ勉は大人しく勉強してればいいんだよ。ああ?」
関のこの一言で、マナブの中に張りつめていたものが一気にきれた。内心の怒りをぶちまけるように、マナブはありったけの声で叫んだ。
「関君、関に着きたまえ!」
その瞬間、教室が奇妙な空気に包まれた。関が何か言い返してくるかと思ったが、なぜか何も言わずにしかも目を丸くしている。
教室に変化が起こった。数人の女子がクスクスと笑いだしたのである。今度はマナブがことの成り行きを見つめる番だった。
「関本君がダジャレを言った!」
という女子の一言をきっかけに、笑い声は教室中に広がった。
「マナブがダジャレを言った!」
「あのガリ勉がダジャレを言った!」
さっきまでの緊迫した雰囲気はどこへやら、教室は大きな笑いに包まれていた。つい数分前までマナブをにらみつけていた関でさえ、今は爆笑している。
「もう、勝手にしなさい!」
奥村はもう完全にヒステリー状態になって、教室を出ていった。マナブだけが、何が何だかわからずにただぽつんとその場に突っ立っていた……。
「関本君」
昼休み。マナブがいつものように一人で弁当を食べていると、世話焼きのリカが声をかけてきた。
「なんだい、いきなり」
大好物の卵焼きを口に運ぶ手をとめて、マナブは言った。
「またダジャレを言ってよ」
「えっ?」
マナブは生まれて初めて言葉に詰まった。日本の歴代総理大臣の名前や世界中の国の名前ならすぐにこたえられる。しかしダジャレとなると……。だいたい、ダジャレの意味すらもまったくわかっていないのだ。
「ダジャレって、何だ?」
マナブが真面目な顔できいたので、リカはクスッと笑った。
「意外だなあ。関本君って何でも知ってそうなのに。ダジャレっていうのはね、人を笑わせるために言う冗談のことよ」
「人を笑わせる……」
マナブはいささか腹が立った。英語の時間のあの言葉は、ふざけていた関を注意するためのものだ。それをダジャレなどといって笑うとは……。
「あの時、僕は関を真剣に注意したんだ。人を笑わせようとなんてしていない。だいたい、あの言葉のどこがおもしろいんだ」
「自分で言ってわかってなかったの?あれは、関君の関と着席の席が……やめやめ。説明したらおもしろくないもん。それとね、ダジャレっていうのは、言う方が大真面目なほどおもしろいのよ」
「なるほど……」
マナブはいつしか、リカの話にまるで講義でも聴くように集中して耳を傾けていた。そしてリカもまた、マナブに何かを教えていることに喜びを感じていた。
「ダジャレを言う時に注意することは、タイミングね」
「タイミング?」
「そう。どんなにおもしろいダジャレでも、言うタイミングを間違えれば全然ウケないのよ」
予鈴が鳴った。リカはあっ、と壁の時計を見て、
「次の授業の準備があるから、もう行くね」
と言って自分の席に戻っていった。
マナブはリカの話を頭の中で整理してみた。あんまり集中して考え込んでいたものだから、最後に取って置いた卵焼きを食べるのを忘れていたのである……。
最後の授業は音楽だった。午後の授業だけあって、半分以上の生徒が机に突っ伏して眠っている。いつもは授業を熱心に聞いているマナブも、今日は何だか上の空である。
だんだんにダジャレというものの意味がわかってきた。一つの文の中に二つの同音異義語があり、それらがその場の人間を笑わせる要素を持つ時、その一文をダジャレと言うらしい。そして、ダジャレによって相手が笑った時、その状況を「ウケた」と言うようだ。ダジャレは人を笑わせるためにあるが、言う本人は決して笑ってはならない。
リカの話を総合するとこんな風になる。理論はこれでいいとしても、実践が問題だ。どんなダジャレを言えばいいのかわからない。何かいい実例はないものか……。
「関本君」
「はい」
優等生の性で、たとえ考え事をしていたとしても指名されればすぐに返事をする。
「この音符につける記号をこたえて」
と中里が言った。マナブは立ち上がって黒板の前まで行った。
こたえがフラットだということはすぐにわかった。マナブは解答を書くスペースに「♭」とチョークで書き込んだ。
「はい、正解。じゃあ、席に戻っていいわよ」
中里が言ったので、マナブは体の向きを変えようとした。……と、ここでちょっとしたハプニングが起こった。昼休みの掃除で水気があったのか、足元がほんの少しすべってしまったのだ。
「大丈夫?」
と中里は言って、マナブの体を軽く支えた。その瞬間、マナブの中で何かがひらめいた。「タイミング」と心の中で何度も呟いて、マナブは言った。
「ちょっと、フラットしちゃいました」
一瞬のうちに、教室中でどっと笑いが起こった。最初は我慢していた中里も、ついにはこらえきれなくなって大声で笑いだした。
マナブはさりげなくリカを見た。リカもマナブの方を見てうっすらと微笑んでいる。それを見て、マナブも思わず微笑んだのだった……。
それ以来、マナブはひまさえあればダジャレを言うようになった。親や教師たちはマナブの変貌ぶりを心配したが、マナブはいっこうに気にしなかった。それどころか、マナブのダジャレ熱は日を追うごとにエスカレートしていった。「ダジャレ参考書」なる本を買ってきて、それを毎日読んでダジャレの基本を頭にたたきこんだ。ついには、自分で「ダジャレノート」をつくり、思いついたダジャレを次々に書き込んでいった。こうした日々の努力(?)の甲斐あって、マナブはクラスの人気者になった。マナブが何か言うたびに爆笑が巻き起こり、その場の人間はみな幸せな気分になった。ただ、見むきもされなくなった高校入試の参考書たちはさみしそうにカバンの中でふて寝をしていた。
ある日の帰り道。今日もマナブは「ダジャレ参考書」を読みながら家に帰っていた。
「パンダの大好物はなに?……パンだ」
まるで英単語を暗記するかのように淡々と読み上げていく。
「本棚には何を置く?……本だな」
よし、あと二つでノルマ達成だ。
「君の干支はなに?……えーっとねえ」
マナブはダジャレを覚えるのに夢中になっていた。ここが赤信号中の横断歩道だということも忘れて。
突然大きなクラクションが聞こえ、マナブは初めて参考書から目をはなした。だがときすでに遅く、マナブは大型トラックにはね飛ばされてしまった。
「だ、大丈夫か?」
トラックの運転手が血相を変えてトラックを飛び出し、倒れているマナブに駆け寄った。
「う、うーん……」
「な、なんだ?」
運転手はマナブの口に耳を近づけた。
「昨日、車にはねられちゃった……そうカー」
それだけ言うと、マナブは安心したようにゆっくりと目を閉じた。その目がふたたび開くことは二度となかった……。
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