彼岸漫歩

著:豊永 春始

彼 岸 漫 歩
豊永春始 作

幸一は昼飯のおかずに近くの魚屋から彼岸河豚を二尾買って帰り、自分で調理して味噌汁にして食べたが、その時河豚の肝も一緒に食べたのだった。幸一はK市から単身赴任でH市にある石油精製工事へメンテナンスの工事監督として仕事をしていた。
現場事務所には炊事場があって、時々は昼飯を作って食べていた。
その日の工事は割りと暇で、幸一はいつも行きつけの魚屋に行って彼岸河豚を買ったのだった。「おばさん、この河豚新しいね、毒はないかい」「彼岸河豚だから毒は心配ないよ」「そうか、だったら自分で調理しても大丈夫だね、二尾ください」幸一はこうして彼岸河豚を二尾買って帰り、味噌汁の中に入れて食べたのだった。
「所長、魚屋の小母さんは彼岸河豚には毒はないと言っていたが、肝は食べないほうがいいよ」幸一はそう言って自分は二尾分の肝を食べたのだった。
事務所は所長と幸一、女子事務員の三人だったが、所長は肝を少し食べ、事務員は身だけを食べたのだった。幸一が午後の工事の立会いで現場に行き、現場から事務所に帰ってくると、所長が机に顔を伏せていた。
「所長どうしました」「気分がわるいな」
「いけない、河豚に当たったな、すぐ病院へ行きましょう」幸一は所長を車に乗せて、近くの内科の病院へ行った。
「すみません、先生は居ますか、急病です」
「先生は小学校の校医で今学校へ行っています」医者の奥さんは医者が居ないことを告げた。
「河豚の毒に当たったのですが、他に病院はありますか」「河豚中毒、それだったら中央病院じゃないとだめですね、すぐ電話しておきますから、そちらへ行ってください」
幸一は所長を乗せたまま中央病院へと急いだ。途中車を運転しながら幸一はハンドルを握っている手の感覚が薄れてきたのと、目じりがぴくぴくと痙攣し、唇もじぃーんと痺れてきた。
「いけない、このままでは運転できないな」
そう思いながらも、もうそこだから何とかいけるだろうと、のろのろ運転で病院の玄関に着くことができた。病院の玄関には電話を受けたのか、二、三人の看護婦が待っていた。
幸一が車をやっと止め運転席のドアーを開けてかがみこむと、看護婦が抱えて病院内へ連れて行った。所長は歩いて病院内へ行き、幸一と一緒に処置室へ入っていった。
幸一は其の頃になって苦しくなり盛んに嘔吐をした。「これは死ぬで、家族に連絡取れや」医者は幸一の瞳孔を見ながら看護婦に指示していた。
幸一にはそれが聞こえて俺もこれまでかと思った。其のときまでは意識があったのだった。

幸一は川の水の上に座り何かに引かれるように進んでいた。「おや、ここはどこかな、水に浮いているし、どこへ行くのかな」幸一は不思議に思いながらも、川の流れのまま進んでいくと、やがて岸へ着いた。
そこは三途の川を渡ったところで彼岸だった。
辺りは青みがかった霞がかっていたが、岸には白い花が一面に咲き、小鳥も数羽飛び交っていたが、鳴き声も羽音もなく音のない世界であった。
幸一が花を分けて進んでいくと、向うから人影が現れて幸一に近づいてきた。
「幸一か」それは十数年前に亡くなった幸一の母だった。
「あれ、お袋か、なんでここへ」幸一は不思議に思って尋ねた。
「お前を迎えに来たのだよ」「俺を迎えに?どうして俺が此処へ来ることが分かったのだい」「それはお前が死ぬとき私を思ったからさ、死ぬとき思ったことは此処で現れるのさ」「本当か、俺は死ぬとき何も思わなかったが」「そんなことはない、誰でも死ぬときは何かを思うものだよ」「すると此処はあの世か、俺は死んだんだな」「お前は未だ完全に死んではいない、坊さんの引導が渡ってないから」「引導て、なんだい」「それは仏様のところへ行く手形さ、ほらあそこに門があるだろう、あれが入寂の門といって引導を持った者が入って行ける幽玄の世界の入り口だよ」「何人かの人が入って行くね、皆死んだ人だね」「そうさ、あれを入ると生き返ることはないね」「俺はどうなる、まだ死んでいないのか」「お前は死に掛けているよ、現世でお前を助けようと医者が一生懸命に手当てをしているよ」「でもここへ来たからには死んだのではないか」「そうとは限らない、たまにここへ来て生き返って帰っていく人もいるよ」「ところで、お袋が生きているときなにもしてやれなかったな、本当に親不孝だった」「そんなことはない、お前は私の言うことをよく聞いてくれたし、私が入れ歯を入れたときお金を払ってくれたこともあったよ」
「そんなもんじゃすまないよ、ごめんな」
幸一は母が死んだ人間とは思えなくなっていた。「俺はこの辺を歩いて見るから」そう言って幸一は三途の川のほとりを歩き出した。
辺りはほんのり明るく朝でもなく夜でもなかった。
「お袋、今は朝かなそれとも夜に近いのかな」「ここには朝もない夜もないのだよ、この明かりは寂光と言って仏様の明かりだよ」「あの世では地獄とか極楽とか聞いたことがあるが、どこが地獄でどこか極楽だい」
「地獄極楽はその人の心にあって、現世で悪いことをしたと思っている人はここでも苦しい思いをするし、それが地獄と言われるのだよ、でも悪かったと心に思えば直ぐ楽な気持ちになれるよ、それが極楽さ」
「閻魔様はいないのか」「それは自分で心に描くものでここにはいないよ」
幸一はお袋と話しながらその辺を散歩した。
お袋と話すといっても声にはならずお互いに思っていることが通じ合うのだった。
「おや、何人かの人が歩いているね、一寸話してみよう」幸一は人々に近づいて行き話しかけた。「俺幸一と言うけど、何で死んだの」話しかけられた男は青白い顔を上げて「山崎と言います、交通事故です」
「交通事故か、すると急に死んだのだね」
「そうです、いきなり死んだもんですから、家族に何も言い残すことも出来ませんでした、それが気がかりです」「手に数珠を持っていますね、それはどうしたのですか」
「これは私が死んだときは持っていませんでしたから、納棺するときに家族が持たせたものと思います」「数珠を持っているとどんな気持ちですか」「これを持っていると安らかな気持ちになれます」
そう言って男は入寂の門を這入って行った。
幸一は更にその周辺を歩き、青みがかった周りの景色に見入った。周りには白い花が咲いていたが、入寂の門以外は建物もなく遠くまでは見えなかった。
「おや、犬がいるな」やや離れたところで数匹の犬が戯れていた。体を宙に浮かしている犬もいれば花の中を泳ぐように走っている犬もいた。「あれ、ゴローじゃないか」その中の一匹に五年前に死んだ幸一の愛犬ゴローがいた。
「ゴロー!」幸一はゴローを呼んだ。
ゴローは体を浮かせながら幸一の傍に寄って来た。
「ゴローお前此処に居たのか」幸一はゴローの頭を撫でながら、そう言うと
ゴローは「此処で遊んでいます、懐かしいです」幸一にはゴローがそう言ったように思えた。此処では人も犬も言葉に出さなくてもお互い通じるんだな、幸一は霊界の不思議さに感じていた。
「お袋、誰か俺を呼んでるよ」「それはお前を生き返えさせようと、お前の家族が一生懸命お前を呼んでいるのだよ」「そうかお袋にはそれが分かるのか」
「完全に仏になって心に念じれば現世のことが見えるよ、お前はまだ仏になっていないから見ることは出来ないね」「俺は生き返るのかな」「お前は間もなく生き返るよ、顔に赤みが差してきた」
お袋とこんなやり取りをしているうちに、幸一は何かに引かれるように三途の川のほとりに来た。そして幸一は以前川を渡ったようにいつの間にか、水の上に座って川の上を引かれるように元の岸へ渡って行った。
「幸一!気が付いたか、良かった、良かった、
先生ありがとうございます」
幸一は生き返ったが、彼岸での出来事は何一つ覚えてはいなかった。

                 おわり


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