予兆
本当に営業という仕事は割に合わない、と大垣は声に出してつぶやいた。
得意先であるT通信機の資材担当から、夜の九時も過ぎようという時間に、緊急の電話を受けた。納入済みの部品に不具合が発生したので、至急代替品を持って来い、という内容だった。
大垣にも正当な言い分は充分にあったし、実際それをぶつけてもみた。しかしそれで相手が納得して事態が収束するはずも無く、最終的には立場の弱い業者側が折れるしかない。自分が動くことで円く納まり、今後の取引に影響が出なければ万事良しとするべきなのだろう。
大垣はぶつぶつと文句を唱えながら、もはや誰もいない寒々しい現場に入り、白熱灯を点けた。今回問題となった部品を製作した際、段取り上余剰品が発生し、それを在庫入れに入れておいた事を思い出したのだ。
このS電材に入社し早八年、欠勤の多いダメ社員の典型だった大垣も、この春営業課長となった。思えば大垣の仕事ぶりが劇的に変化していったのは、妻・真由美との結婚と、長女・亜里沙の誕生という四年前の私的な事柄に起因するものだった。
時を同じくして、様々な変化が大垣の目の前に現れた。周りの評価、営業車の高級車種へのグレードアップ、そして昇進と収入の増加。
何よりも「評価される」喜びを知り得た事は、大垣にとって自信となり、それがまた仕事にいい影響を与えていた事は間違いなかった。
日々割が合わない、報われないなどと文句を言いながらも、この仕事を止められない理由は大垣自身がよく理解しているのだった。
「確か、この中に突っ込んでおいた筈なんだがな…」
営業が使用する出荷棚の、一番下の右。このスーパーの籠のような物が、大垣専用の在庫品入れだった。日々の業務の忙しさにかまけて、普段整理などしていなかったが、こういう時にそんな雑務の大切さを痛感する。籠に手を突っ込み、目当ての部品と同じ形状を盲牌さながら探してゆく。
手を忙しなく動かしながら、視線を上に移動し、棚の上の壁掛け時計を見上げた。先方から連絡が来てからの経過時間と現在の時間、先方への到着時間と帰宅時間を目算する為の、ほぼ無意識的な行為の筈だった。
大垣は上を見上げたまま、じっと時計を見つめた。
九時十六分から十七分になろうとしているところだった。長針と短針が一直線の形を保ちながら、しかし右肩下がりの不安定なイメージを時計が暗示しているかのように、大垣には感じられた。
他愛も無い連想ゲームのような物だが、時折囚われるその手の感覚を、大垣は大袈裟に捕らえる傾向があった。
何の脈絡も無い、唐突なイメージ。
脈絡が無いだけに、通り魔的な理不尽な恐怖を連想してしまう。
ある日突然、繁華街の真ん中で、見知らぬ人物に刃物で傷付けられ、そして呆気なく命を落とす。何の脈絡も無く、愛する家族と引き裂かれる。身体的な苦しみよりも、家族との離別に耐えられそうに無い、と大垣は思う。
いや、通り魔に襲われるのが、家族だったらどうだろうか。恐らく想像も絶するような悲しみや怒りに支配され、何をしでかすか分からない状態になるのではないか。そしてその後には感情の一切を失ってしまい、自分も死んでしまうだろう…。
大垣は身震いをして、なおも手だけで部品を探しながら、暴走しかけている思考を理性的な方向へ修正した。
…こんな感覚に囚われるのは、決まって一人の時だ。特に今は、遅い時間の会社に自分以外誰もいないという状況。要するに、いい年こいてビビッてるって事か。
大垣は鼻を鳴らして苦笑し、探し物の作業に集中する事にした。
ようやく目当ての部品を探し当て、腰を上げ白熱灯の下に移動する。部品自体に外観上の問題が無いか確認する為だ。
「…暗いな」
通常白熱灯は、ちゃんとした明るさに達するのに、せいぜい十分程度だが
確かに時間が掛かる。しかし、さっき現場に入る時に点けたのだから、とっくに明るくなってもいい筈だ。
…壁掛け時計を見上げた。
九時十六分五十一秒、五十二秒、五十三、五十四……
大垣は、自由に呼吸が出来ない様な息苦しさを感じ、思わず現場の白熱灯を消し、早足で現場から事務所に戻った。
妙な焦燥感、とでも言うのだろうか。予期せぬトラブルと対峙した時、こんな感覚に襲われた事が過去に何度かあったような気がする、と大垣は思った。
原因に対し、結果をストレートに証明出来ない事象。
樹脂やゴムなどの高分子素材を主に扱うものづくりの世界は、極めて奥が深い。化学物理の原則に則っていながら、化学的にも物理的にも説明できない不具合と言うものが存在したりする。しかしながらこういった事象には、必ずと言って良いほど人間の“思い込み”と言うファクターが存在し、これが真犯人だったりするのが常である。
実際の時間と自分の感覚とのズレ。きっとこれもそうなんだ。大垣は大きく深呼吸した。
人が考え込み、妄想に耽る時、えてして本人が感じるよりも時間は早く進むものだ。しかし、全く逆の場合というのは、どんな事態が考えられるのだろうか。
いや、思うより時間の進みが遅い、といったレベルでは無かったような気がする。まるで進んで無いかのような…。
考えながら、大垣は再び壁掛け時計を確認しようと、工場へと繋がる硝子戸の奥を覗き込む。
白熱灯が消えかける薄暗い工場の奥に、壁掛け時計のつるりとした表面が見えた。その表面に事務所の照明がギラギラと反射し、針の位置がどうにも確認出来ない。
大垣は少し横に移動し、反射の影響を受けない位置から針の位置を確認し直す。
九時十六分五十六秒、五十七秒、五十八、五十九……
全身の毛穴が開き、頭の先まで鳥肌が立った。胸の動悸がにわかに早くなる。自分の心音が、何かに対しての警鐘にも思えた。
理性的な論理付けにはたどり着けそうにない、と大垣は直感した。
自分のバッグに例の部品とシステム手帳を押し込む。部品の確認はろくに出来ていなかったが、その場にはもう居たくなかった。バッグを抱え、営業車と事務所のキーを机の引き出しから取り出し、事務所の戸締りをチェックする。目だけはキョロキョロと辺りを彷徨うものの、そんな簡単な作業に必要な冷静さすらももはや微塵も無かった。
事務所の裏口から出る間際、壁掛け時計の時間と、腕時計の時間を見比べる。
ズレはいつもの通り、腕時計の時計が五分きっかり進んでいる。やはり壁掛け時計自身にも問題は無いようだった。
「…まぁ、疲れてるって事だろ」
大垣は大きく声に出して、強引に結論付けた。この時間、会社の周りは畑に囲まれ極端に寂しい。まるで自分自身を鼓舞するかのような大垣の言動は、第三者からみれば滑稽に映ったかも知れない。
恐怖があるとすれば、それは妄想だ。現実じゃない。
大垣は、深く考えないよう自分に言い聞かせ、真新しい営業車に乗り込んだ。
納品と打合せを終わらせ、大垣は帰途の車中にいた。
今回の不具合により、先方の生産ラインが止るという最悪の事態を招いてしまった。その為、資材担当者と共に各部署を謝罪して回り、その後賠償問題を含めた今後の対応策の打合せをしていたのだ。
内容が内容だけに時間が掛かり、T通信機を出たのは夜中の三時半を過ぎていた。思いもかけない大問題に発展し、翌日上司に報告しなくてはいけない事を考えると大垣は気が重くなった。
狭い県道を抜け、国道に出る。
いつも会社に帰る時はこの国道を突っ切り、畦道に毛が生えた程度のこの県道を使う。S電材では代々T通信機担当者へ受け継がれてきたルートで、道が込む夕方は国道と併走するこのルートがすこぶる有効なのだが、家へ直帰する時は素直に国道を通った方が早い。
…そう、早く家に帰りたい。今は一刻も早く妻と娘の寝顔が見たい、と大垣は思った。頭の中に妻や娘の顔が次々と浮かんでいく。
大垣は疲弊しきっていた。
もちろん今回のトラブルの事もあるが、頭の中に引っ掛かっているのは会社での出来事だった。
なぜだろうか。焦燥感はずっとこびり付いたままだった。
いつもの日常が続けば、この夜の出来事も何時しか忘れてしまうような日常の一片だったのかも知れない。しかし大垣にとってこの出来事は、確かに予兆だった。理不尽な結果に対する、不可思議な予兆。
金属と金属が激しく擦れるような衝撃音と共に、中央分離帯を飛び越え自分の営業車に向かって暴走してくる大型トラックのヘッドライトが、大垣の視界に飛び込んできた。
助からない、と覚ったその瞬間、大垣はこの夜に起こった出来事の本当の意味を、初めて理解できた。
「…ひいぃっ」
大垣は声にならない奇妙な悲鳴をあげた。
(回りの時間が止ってた訳じゃなかったんだ… 俺の時間が止ってしまう事を、暗示してたのか…!)
ぐしゃぁっ、という衝突音を鳴り響かせ、大型トラックは大垣を乗せた車を押し潰していった。
警察の実況検分はスムーズだった。
事故の衝撃で、大垣が身に着けていた腕時計が止まり、その止っている時間で事故の起きた時間を容易に推測できたからだ。
腕時計の時間は、三時四十八分を指し、止っていた。
長針と短針が一直線の形を保ちながら、しかし右肩下がりの不安定なイメージを明示しながら…。
(了)
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