手紙(宿題 改)
『お帰りなさい』
母さんが、笑んで僕にそう言う。
明日から夏休みだというのに、ここ幾日か雨の日が続いている。
今日も外は大雨だ。
僕はすっかり濡れてしまった黒い靴を素早く脱ぎ、タオルで鞄を拭い、足元も綺麗に拭いた。
母さんはそんな僕を、笑みながらじっとみつめている。
僕が一通り雫を拭い終わると、白く細い腕がゆっくりと差し出された。
「ありがとう母さん」
僕はタオルを母さんに手渡し、リビングへと移動した。
僕の家は、玄関から真っ直ぐに伸びた廊下の先にリビングルームとキッチン、そこを左に抜けると洋室、隣に書斎、中央に2階へと続く階段、向かいにお風呂や洗面所といった水まわり、と並んでいる。
タオルを片手に突っ立ったままの母さんの横をすり抜けた僕は、それらを順に見る格好で2階にある自室へと移動した。
2階には、僕と母さん、そして2歳違いの妹の部屋がある。1階の洋室と書斎は父さんのものだ。
階段を上がってすぐ、目の前に現れた扉を僕はゆっくりと開けた。
「……」
なにもない。
否、朝と何も変わっていない。
何ひとつ、動いてもいないし歪んでもいない。今朝、僕がいつもの様にひと通り並べ直したまま、机の上のもの、ベッドの上のもの、窓ぎわ、壁、天井、床、全てがそのままだった。カーテンですら、今朝と全く形を変えずに存在した。…まぁ、無風状態のこの部屋にあってそれは、当然といえば当然かもしれないが。
隅々まで触って確かめて回った後、僕はいつもの不思議な満足感に浸りながら、机と対である椅子に腰掛けた。
もう一度。再度、自分の部屋を見渡す。
…何も、変わってなどいないだろう。
何も、違わないだろう。
変わっていない、はずだ。
違わない、はずだ。
「なにも、ない」
そうして、さっきと同じ回答を再度、今度はしっかりと口に出して答える。
今度はあの不思議な満足感はやってこなかった。2度目はないらしい。
ふぅ、と、軽くて重い溜息をひとつ机に落とし、【診断書】と書かれた紙をそっと揺らした。
この【診断書】は、僕に対して出された診断についてのそれではない。母さんの【診断書】だ。昨日の夜、父さんの書斎からこっそり持ち出してきた。見つかれば叱られるだろう。けれど今、父さんは海外出張中である。
【日付:2***年5月13日】と書かれたこの【診断書】が言うには、母さんはもう長く病気なのだそうだ。
否、僕はそれを知っていた。こんな【診断書】を見つけ出すまでもなく―――僕は母さんのことなら何でも知っている。だから、母さんの病気についても、当然知っている。
僕の部屋と妹の部屋にはそれぞれ、窓とバルコニーがひとつずつある。
何故、母さんの部屋には窓やバルコニー、或いはそれに匹敵するものがないのか、その理由を僕は知っている。ずっと前から、知っていた。妹や、僕や、父さんが生まれるその前から、僕は知っていた。
何故なら、母さんは病気だからだ。
因みに、1階の父さんの書斎にも窓はなく、洋室には表の庭に面した大窓がある。
僕が生まれる少し前、父さんがこの家を建てた。
父さんは、主に西洋の建築物を手がける、建築士だ。設計もできる。だから父さんは、母さんとこれから生まれてくる子供―――この時は僕だけだったが、後に生まれた妹―――の為に、自らの手でこの家を作り上げた。
父さんの洋室の大窓は、その時の母さんの希望で設計書に書き加えられたものらしい。
けれど。
僕たち【家族】は、4人そろってこの大窓から外の景色を見たことなんか、一度もない。
「母さん」
一旦自室を離れ、僕は1階に居るはずの母さんを呼んだ。
だが返事はない。
なんとなく心配になって、僕は階段を駆け降りた。
「…母さん」
母さんは、いつもの様にリビングのソファに座って、じっとテレビを見ていた。
砂嵐の映った、テレビ画面を。
見ているというよりもそれは、見つめているといった方が正しい。
母さんはひとりになるとよくこうする。
「今日は、何?母さん」
『……』
母さんは振り向いて、僕に笑みかけてくれた。
色の無い眼に僕は映っていない。
問いに対する応えは、やはりない。
「また、解らないものを見ているんだね…」
『……今日はね、お父さんから、お手紙が届いているの、■■■■■■』
「あぁ…それは本当?」
『ええ。お母さんが■■■■■■に嘘を言うわけ、ないでしょう』
「そうだったね、母さん。それで、父さんからの手紙は、何処?」
『此処に、在るじゃない』
母さんは、またテレビの方に向き直る。
「そこに、あるの?」
『ええ、ほら、見えるでしょう?ほら、其処…』
母さんが指差した先にはただ、ザァザァと嫌な音を立てて流れる砂嵐を映し続けているテレビ画面があるだけだ。
「……あぁ、確かに、あれは父さんからの手紙のようだね、母さん」
僕は、母さんと同じ回答で応える。
『でしょう?早く、お母さんに読んで聞かせてくれない、■■■■■■』
困った。在りもしない手紙を読むなど、全く無茶だ。
けれど、今の僕にはそれができる。
手紙が無ければ、在るようにすれば良いのだから。
「『最愛なる妻□□□□□へ。
元気であることを祈る。私は相変わらず忙しいままだ。慣れた土地ゆえ体調に問題はないが、□□□□□の手料理を口にできぬ毎日が続いて、少し鬱になりそうだ。今月が過ぎて来月が来て、再来月が見えた辺り、帰る予定だ。それまで、子供たちを頼んだ。□□□□□も御体に気をつけて過ごすように。July 16/2*** ×××××××』」
それはフランス語で書かれているらしかった。
読み終えた母さん宛ての手紙をそっとテーブルに置き、僕は母さんを見た。
母さんも、僕を見ていた。
『ありがとう■■■■■■』
「いいえ、母さん。僕にはこの位しかできなくて残念だよ。父さんは、元気そうだね」
『そう?良かった』
母さんは、人の話なんて聞かない。
聞こえていても、聞いている風に見えても、それは決して真実、聞いているということではない。
僕はそれで構わない。父さんも、妹も、きっとそうだ。
「それで、母さん…」
『ええ、けれどあの子はいつも遅いじゃない』
母さんは、人の話を読む。
先読みするのだ。考えていること、思っていること、今まさに口にしようとしているありとあらゆる全ての情報を、先に読んでしまう。
何故なら、母さんは病気だからだ。
「そうだね。また今日も、遅くまでそうして待っているつもり?」
『ええ、そう。お母さんの大事な娘だもの。どんなに遅くなっても、こうして此処で待っているつもり』
「分かった。それじゃあ僕はもう部屋に戻ることにするよ」
『後で、夕飯持って行くわね』
「ありがとう、母さん」
母さんと、昨日と全く同じやりとりを終えた僕は、勢い良くベッドに座り込んだ。
1階以上に上がることのできない母さんは、夕飯を部屋に持ってきたりしない。
馨しい母さんの手料理はいつも、階段の前にいる。
何故なら、母さんは病気だからだ。
…思うところはただひとつ。
明日も、明後日も、明々後日も、これから先、ずっと僕は母さんとの日々を繰り返す。
全く同じ、何ひとつ変わることない非【日常】を、【日常】として過ごしてゆく。
リビングのテーブルの下にはもう、数え切れなく無印の白封筒が積み上がっている。今日もひとつ増えた。きっと明日もまたひとつ、増える。
ずっと、増える。
こうして、母さんが死ぬまで、僕は母さんとふたりで生きてゆくのだろう。
否、母さんが僕を殺すまで、か――――。
と。そこで気づく。
今、この瞬間まで気づかなかった。
気配なんて、全くなかった。
どうして―――
僕の部屋に、細かいノックの音が、響く。
それはどんどん、細かく忙しく大きくなってゆく。
2回、4回、3回、2回、2回、1回1回1………――――
『■■■■■■、夕飯、持ってきたの』
[終]
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