ある思い出

著:南緯

色覚異常には、眼の発育不全で起る先天色覚異常と、生後眼の疾患で起る後天色覚異常とある。そしてこの2つのうち社会的に比較的重大な意義を有するものは先天色覚異常である。先天色覚異常をおおむね4種類に区別する。即ち、全色盲、全色弱、赤緑色盲及び赤緑色弱である。

私は、この赤緑色盲および赤緑色弱に該当するらしい。

私が小学校の低学年の時分に、夏休みの期間を利用して両親の出身地の福岡に、一家総出で出向く事となった。到着地点である父方の祖父の家には、以前にも何度か訪れた経験があり、表面上はよくある里帰りの様相を呈していたともいえる。実際に妹は、はるばる遠方の宮城からやって来た旅行者気分で、好奇心に満ち溢れ、晴れやかに両親の故郷の地を踏みしめていた。

私はそれとなく出発する前から、向こうに視力を回復させる為の機材を取り揃えた施設があるという話を、両親が口ずさんでいるのを聞いた記憶がある。

事の発端は、地元の小学校で低学年向けに行われた体格検査から始まった。

その日は学年、クラス別に生徒を保健室の内外に整列させ、滞りなく順番に従って検査を受けさせて、各自が携帯する用紙の項目を検査結果で埋める作業が続けられていた。自分自身は体に不自由はなかったし、多少痩せこけてはいたが、普段から健康そのものだった。また五感も正常だと疑いさえしていなかったので、列から漏れずに皆と同じ行動を取ってさえいれば、緊張の場も万事が無難に終了すると考えていたのである。しかし一箇所だけに避けようのない落とし穴が秘められていた。

幾らか白紙にも文字が記述され、次の検査の為に一列に並んで立ち尽くし、自分の番が来るのを落ち着きない様子で待っていた。先方にはおそらく教師だと思われる者が、椅子に腰掛け前の机に何やら用紙を提示して、生徒一人ずつに答えを促している。生徒が数字の声を上げている所からして、ただ身を任せて計測される受動的な今までの検査と違い、自主的な回答の如何によって合否を判断される仕組みらしい。その様子から試験のような試される雰囲気を感じ取り、そわそわと列からはみ出して、予めに少しでも詳細を確認しようと後ろから覗き見ていた。

大丈夫だろう。自分に異変はない。そう言い聞かせて平静を保てるように努めていた。

それから前に立っていた背中が退いて、目の前に試験管のこしらえた検査用紙がはっきりと姿を現した。初めに数字を答えていくように指示を受け、それからページがめくられる。

不意に視界の枠に収められた絵柄の数々は、しいて例えるならパラドックスの象徴であった。

初めに目を落とした絵柄は、一色の丸い枠の中に異なる色の数字が描かれている簡素な仕組みで、難なく解答を口にする事が出来た。しかしその次から提示される模様からは、ただただ奇怪な印象だけを与えられた。様々な色が汚く雑然と入り乱れており、幾つかの色彩が混交して解り易く数字の形を成している。見た通りに率直に答えを申し上げた所、対面する人物から意外な声を掛けられた。

「もう一回言ってくれないか」

そう切り返しをされた所で、その時の幼い自分には機転を利かせる頭脳も、感覚を疑う態度さえ備わっていなかった。だから慌てながらも、愚かに自信を持って同じ回答を反復したのである。

その後は短い拷問だった。答える数字がことごとく正答に反しているのは、試験管の反応を見て悟る事が出来た。数字の判読自体が不可能な絵柄もあれば、中には「解らない、読めない」が解答で、数字を読み上げれば異常と判定される、まるでトラップのごとき矛盾をはらんだ図柄まで含まれていた。

いずれにしても私は疑いようのない色覚異常の判を押されたのである。終了後に混沌とした頭の中で、こんな検査誰も解くこと出来ないさ、と決め付けて近辺にたむろする連中から、多数の同類者を探すのを試みていた。結局この一つのみが唯一の身体の異常として、すぐ後日に家庭に深刻な結果の通知が届けられた。

将来に暗い影を落としかねない思わぬ異常の発覚に慌てた両親は、それからやたらと馴染みの黒いソファーに互いに腰掛けては、相談事を交わす回数が増えていった。そのうちに話の展開は、どこか息子の目の治療に当たってくれる医院はないものかと、飛躍し始めた。それは確かに自身の問題に重大な関わりのある件であったにもかかわらず、私は完全に話の蚊帳の外に置かれていた。物心ついてない年頃の子供であり、説明するに及ばないと考えたとしても、本人の意思を抜きにして勝手に治療の計画が進められていくのは、面白い事ではない。

またそれ以前に、どうしても両親に伝えておかなければならない隠し持った事実が、小さな胸に秘められていた。

自分は色覚の異常者じゃない。他の人と同等に色を見分ける能力を、相応に限りなく等しく備えている。

端的に言うと、これが何より検査後から尾を引いている葛藤の種であった。信号や虹の各色の区別がつかないといった、具体的に色覚の障害を事前に認識する機会が、今までにあったというなら話は別である。ところが自分の知る限り、色の識別をついぞ他人と違えた記憶もなく、信号や虹は勿論の事その他全てに渡り、見えない色彩の存在をかつて知る由もなかったのだ。

つまり、自分が色覚異常であるという証明を、判定が下されるまでの人生上で見出す事が不可能だったのである。滑稽なことに、実生活に溢れる配色とは無縁の色彩で飾られた色覚異常検査表に目を通したその時だけ、私の色覚の異常は傍目から発覚し、自分自身もやむをえず認知するのだ。生きた経験の方を信頼してか検査後も心の中で、よしんば色覚のどこかに欠損があるとして、生活に何も影響を及ぼさぬ程度の違いだ。問題はあるまいと高をくくっていたぐらいだ。その程度の異常であった訳である。

その話を早く親に打ち明けなければならない。

ある日、意を決してありのままの胸の内を、興奮した口調でまくしたてるように訴えかけた。色の見極めに難点がない事実。視力は両眼とも1,0以上であり、むしろ総合的にみて眼は健全そのものだという反対の意見。公的に認可され、学校で使用される色覚異常検査表に対する懐疑に満ち溢れた批判。

とりあえず伝達したい旨は余すことなく喋り上げた。

しかし感覚を共有しえない両親としては、生後、長年住まいを共にした子供のひた向きな意見にはまるで耳を傾ける様子もなく、規定路線をそのまま貫いていった。

それから結局、両親の実家のある福岡に条件に適合した治療施設を探し出して、これから一家連れ立って向かって行くのである。意気地のない私は、再び同じ主張を繰り返す労力を厭い、諦めの境地で上の意向に黙って従った。

私にとっての三回目か四回目の両親の故郷への里帰りは、こういう訳で事情を知らない妹を除き重苦しいムードでの旅立ちであったのである。

祖父母の家は駅を降りてから、長く急な曲がりくねった坂道を昇っていかなければならなかった。重たい荷物を担いで錆びたアスファルトの上を歩いていき、随分と高地に差し掛かると、横に開ける平坦な道筋に曲がって行った。狭い道のりの片側はレールを挟み、緑の雑草が乱雑に生い茂る険しい谷のような傾斜が一望できた。もう片側に年季の入った家々が立ち並んでいて、列の端の方にたたずむ家が祖父母の住まいだった。

もう夜中の訪問になってチャイムを鳴らすと、玄関先で祖父と祖母が心安らぐ笑顔で出迎えてくれた。その時ばかりは本当は彼らに逢いに来たのではないかと、治療がついでであるという目的の倒錯を感じさえもした。この家にはこれから一ヶ月程度、宿泊させてもらい、食事から風呂まで色々と世話になる予定になっている。

考えてもみれば、私の生後にかつて福岡に訪れた幾度の機会にも、決って身を寄せる先は父方の祖父母の元だった。

ここ福岡は元々、両親が大学に入るまで生育を見守った出身地であり、私にとって出生地でもある。しかし生後三、四ヶ月で東京へと越して、その後も転々と居住地の県を移した経歴から、地縁は極めて薄かった。東京の産婦人科で生を授かった妹は尚更で、あくまで旅行先の異邦人という意識で足を踏み入れていたのだ。この意識の起因には地縁だけによらず、血縁関係の断絶も含まれていた。母方の家の方には、祖母と母の血縁の違いによる軋轢から、滞在中に係わらずかつて一度も訪れた機会はない。したがって祖父母の顔も一方しか見知らぬし、親戚に至っては、父親の姉の築いた世帯のみと家族ぐるみの付き合いがあり、他は存在すらろくに把握していない。だから私にとっては、見識のない一族より感覚の共有しえる者こそ、芯からの繋がりで結ばれているのだと高言を憚らない。そんな人物を捜し求めるような、いわばこれはさびしい小説である。

家に居座ってから気を抜く間もなく、三日と経たない内だったと思う。やはり施設に出発する期日はやってきた。朝食を済ましてから、急な外出の予定を告げられて、私は母と二人で連れ立って坂道を下っていった。登り道とは反対の方向にある近道の狭い道のりを歩いていくと、道路の外れには緑がこんもりと生い茂り、ところどころに咲く名も知らない花の色が繁栄され、その頭先を色鮮やかな蝶々が飛び交っていた。

辺りは夏の装いを呈して、まぶしげな太陽の輝きに満たされて、のどかな自然の光景がおだやかに満ち溢れている。

思わず自然の美しさにうっとりと見とれていると、急に母の口から思いもかけぬ糾弾に晒される事となった。

「朝食時に筒型の箸入れから箸を一本ずつ取り出す時、色の異なる箸を選んだでしょう。あの様子を見ておじいちゃん愕然としていたんだからね」

確かにその日の朝に自分は別々の色の箸を選択して、そ知らぬ顔でのうのうと使用しながら飯を喰らっていた。うかつな事に私は生来の怠け者の性質から、面倒だからという理由で、円筒型の箸入れに混雑に立てかけてある箸をいちいち揃える手間を省き、適当に箸を選び出してしまった。その軽率な行動が結果として、周囲の疑いを決定付ける証拠として捉えられてしまった。

その時の母親の責め立てるような口調は、以前に自分の反論した眼の正常を訴えた反発の姿勢への、辛辣な批判だったのかもしれない。

それ以外だったとしたら、一体どんな意図だったのか。

兎に角、否応なく二枚重ねされた濡れ衣を晴らすためにも、私は討論の幕を引かなければならなかった。

それは朝の失態の弁解に止まらず、繰り返し自分の眼力の普遍性を訴える内容だった。

冷ややかな様子で母はそれを聞き流してから、腕を突き伸ばして指先である一箇所を指し示した。

「じゃあ、あの色は」

その際にふっと心の底に今までわだかまっていた感情が、憤然とした勢いで湧き上がっていくのを意識した。

ばかにしているのか。一体、何年生活を共にしてきたと思っているんだ。

当然だろうと言わんばかりに、当てつけるような明瞭な声で即答すると、再び疑いの手が異なる地点を指し示して、答えを促された。

その一つ一つに回答しながら、今や心の中には反発の他に漠然とした寂寥感が漂っていた。

母は本当にこんな単純な原色さえも、私には見極め困難だと踏んでいるのだろうか。

この不可解な過小評価は一体何なのだろう。仮にも試されているのは、今まで程好く親しき仲だった実の息子である。この機に私は家族としての双方の意識の隔絶というか、少なくとも感覚の共有という点において、果てしない距離感が広がっている事実に突き当たったのである。

ひと通り答え終わると、母は無言になっていた。そして正否の有無を告げられる事もなく、そのまま坂を下っていった。

解っている。どうせ行く事には変わりがないのだ。

この道筋も既定路線なのだから。

電車を降り、ビルが立ち並ぶ静かな通りを母の進行方向に従って歩んでいると、ふいに角に構える一つの建物の中に吸い込まれていった。一階分を占めるさほど広くないスペースに治療所が設けられていて、中には医師らしき白衣をまとった物達や、自分とそう年齢に開きのない青少年達がたまっていた。

おそらく通常の病院とは在り方を違えているのだろが、潔癖のような白い壁に覆われた造りからは、それらしい雰囲気を感じ取ることが出来た。壁の数箇所には、視力検査用の紙が貼り出されていて、医師の傍らに立ち、答えを読み上げている少年がいた。部屋の中には所狭しに白い机がぎっしりと整列して、台の上に使用目的不明の機材が備え付けられている。

はじめに私は医師の指示に従って、視力の検査を受けることとなった。一定距離から検査用紙の記号の指す方向を言い当てる作業は、困難には程遠く、むしろ人より秀でた数値を叩き出す結果が今までの常だった。このことが自身の視力の正当性を信じて疑わない、後ろ盾となっているかもしれない。今回も両眼とも1,0以上の正常なラインに達し、安心する間もなく白い机の手前の椅子に座らされた。その後、確か色覚の検査も行われた気がするのだが、医師の手によってなされるのが筋なのだが、母親が代行したような記憶もあるし、はっきりとしない。ともかくどうであれ、何であれ治療は施されたのである。

椅子に座らされた状態のまま、台の上に設備された機材の先端部分となるヘッドホンのような器具が、頭のこめかみに引っ掛けられる。決定的に見た目と異なる仕組みは、イヤホンに相似した円形の鉄をくるんだスポンジから発せられる物質が、心地良い音波ではなく痛みを伴う電流であったことだ。じりじりとした刺激に耐え忍び、目をつむると瞼の暗闇の中で、心電図のように色付きの線が波立っている。

言うまでもなくこの悲惨な状況が、切羽詰った両親の僅かな希望に賭ける荒治療に拠るところであるのは、もう疑いようがなかった。

こめかみに一定の振動を受けながら、ふとすぐ先の将来について不安を抱くようになっていった。

この強引な措置が絶対的な効果を発するかどうかは定かではないとして、両親にとっては藁にも掴む気持ちだったに違いない。実家に帰る都合と併せて予定を組んだとしても、治療費だけでも馬鹿にならないはずだ。完全に受動的な身に回っているとはいえ、これでもし確実に治る結果をもたらさなければ、非常に悲惨な終焉を迎えてしまうのではないだろうか?

しかし、少なくとも現時点で目を見開いた限りの世界は、感覚的には何も代わり映えがなく、改善したという実感が湧いてこない。このまま何一つ変化が訪れずに時間が経過してしまったら・・・

不安は器具を頭部から取り外した頃には、ほとんど確信に変わっていた。何より目に映る全てが物語っていた。

変わっていない。

そうなのだ、感覚器官に他人と比較して欠損がないと考えられる人間に、治療を施して一体如何なる変化を望めばいいのか。良くなる訳がないのだ、よしんば悪くなることはあっても。どうやってこれ以上ない世界を変遷してゆくというのだろう? 私の目に映る世界には、積み上げるべき必要な要素は皆目見出せないのである。

しかし紙上の結果が全てを物語っている。全てはあのハードルを越さない限り、欠落者の一類と見なされ、きっと将来に物憂い影響が出るに違いない。何より当面の課題として、両親の期待に添えなければならないのだ。しかしどうやって。

こめかみには赤いクレーター状の跡がくっきりと残り、後から母がクリームを塗って痛みを和らげた。そして再び忌まわしい検査用紙が目前に下ろされる。治療所にある色覚異常検査用紙は、学校で扱う装丁の付いた用紙と異なり、一枚の大きなプレートの表面に絵が列を成して、原版通りに載せられている作りだった。母は前面にプレートを両手で支えながら絵の数字を問いただし、裏面に記された答えを見ながら正誤を確認している。

初めは出来なくたって大丈夫だろう、さほど不自然ではないと高をくくっていた。かねてから、一定期間に渡り通院して治療を続ける旨を告げられていたので、最初の治療後に直ちに効果があがるほうが、不自然であろうと心に慰めを掛けていたのだ。

直感の知らせに違わず混沌としたままの配色が視界に立ち塞がり、以前とまったく同様の彩りの組み合わせの絵柄が提示される。したがって治療前と同じような返答を反復し、見えるままに同じ数字を回答し、同じ過ちを反復した。

今は答えが合わなくてもよい。しかし胸の内では、この先も変化は生じないだろうという確信的な予感が、ある種の戦慄を誘致していた。

だからといって、これ以上自分に何が出来ただろう。今まで意見は聞く耳をもたれず、治療費も既に前払いを済ましているかもしれない。今までの流れからいって、治療自体はもう打ち切りは利かないのだ。ことの問題は確実に両親の望みを落胆させる結果だけが、はっきりと見通せる孤独な預言者の振る舞いの如何によるところだった。黙殺を通すべきか、両親のはなから微かだったかもしれない希望を、予め無残に殺ぐ進言か。

帰り道の中途、町の路上で出し抜けに母から治療の具合を尋ねられた。不意を付かれながら、そこで私は否定もできず、肯定も憚れて、たどたどしく言葉を濁してしまった。軽はずみな発言が控えられる窮屈な状況に追い詰められていた。子思いの両親のはかない期待に対する配慮、今までの経緯として自分の意見の無力感からくる諦観、ここまで来て後戻りのきかない規定路線。そういった様々な葛藤が一編にその場に集中して、すっかり身動きが取れなくなった。

また同時に本来なら被害者の立場に回るはずが、嘘を付く事によって自分の中で加害者の側に見なされてしまうのが恐ろしかった。

「今日は、それほど効果は感じられなかった」

というような後に期待を引き伸ばすような、苦し紛れの発言をして、自然な時間の解決だけに取りすがった。

いずれにしても、治療は今後も引き続くのである。両親の望まざる結果がもたらせるのは、自ずとはっきりとするだろう。じわじわと冷酷に、失望と落胆を積み重ねながら。この時、自分の胸中に如何ともしがたい不条理な責務という重圧が心臓を圧迫し、緊張で肌に震えが生じているのを知覚した。

それからも治療所にはいつも母と二人きりで行き来した。

施設での治療方法はひとえに頭の内側に電流を送り込むことによって、視力の解決を図るという方針をとっていた。送電に使われる器具は二つあり、日毎にどちらかの器具があてがわれた。一つは前述したヘッドホンの型をした代物だが、もう一つの器具の番になった日は億劫で、治療時間の前の備え付けの用意の時から、堪え難い痛みを噛み締める事となった。

プラグのような細い鉄棒に、緩衝用の綿を巻きつけて更に太くなった難物を、鼻の穴から骨の奥まで差し込まなければならなかったからだ。鼻骨の上部まで潜入させる際に、一旦鉄棒の角度を斜めに傾ける間が、特に激痛を呼んだ。勿論このような酷な作業を自分でこなせる訳がないが、他人が仕込むのもなまじ痛みが伴わないだけに、見えない空洞のさじ加減の困難に鼻骨は打ち震えた。また送電が開始されてからも、鼻骨は一定の振動に苛まれて悶絶し、目を閉じるとやはり眉間のあたりに色の付いた光が、スパークしている様態を痛感した。

こんな治療を連日繰り返しながらも、一向に視力が良くなる気配は感じられなかった。

次第に焦燥感に迫られていた私は、たった一つだけこの救いのない境遇から抜け出す為の、危うい術を発見することとなった。

治療後にはいつも母がプレートを目前に提示して、答えを聞きだすという習慣がすっかりと出来上がっていた。母はまた、いつものように後ろに記述されてある、答えとなる数字と解答を照合するのが常である。異なる数字を口にすると顔を曇らせ間隔をおいて、当たりだったら首肯したりしながらさっと次の絵に進める。少なくとも自分の回答の正誤は、母の表情だけさえ確認していれば、理解することが出来た。しかも聞き出す絵の順番は、プレートの順列に従っていつも同じであるから、回数を重ねてどこが解らない数字なのかすっかり把握してしまった。

うかつなことに、そのプレートは治療の間にも机の上の鉄製の網の支えに、無造作に立てかけてあった。治療中の時間は15分程度あり、ただ受身となって電流を頭に送り込むだけの作業なので、母は手持ち無沙汰からか、あるいは痛んだ息子の姿を見るのを忍びないと思ってか、いずこかに待機していた。医師に限っては事務的な取次ぎのように、初めの検診の後は装置の取り外し以外にはまるで不干渉の姿勢で、忙しく他の入会者の応対に当っている。つまり私は治療中ひたに孤独な時間を一人過ごし、人目に晒される心配もなかった。自分を困らせ、苦悩の渦に追いやった憎き検査表の番号の解答は、そっと手を伸ばせば掴んだプレートの裏側に簡潔に記されている。

それはとても極めて簡単な手順だった。

その回からだろう。見違えるように治療の効果が発揮されだしたのは。私は幼い時分から、天性のペテン師の気質を持ち合わせていて、幾つかの伏線を張って嘘がさも真実味を帯びるよう平気で装った。

急に全ての解答を叩き出してしまえば、さすがに母も勘繰りを立てるに違いない。そう思って少しずつ少しずつ、答えの合う数字を回ごとに増やしていき、同時に母の表情の変化を用心深く見守りながら警戒を怠らなかった。当然、一度解ったように指し示した数字の順番は暗記して、二度と間違えてはいけない。そうしてばらけさせながら答えに合致する数字を増やしていき、しまいにすべての数字を答えられる様までを、母に疑われようなく演じきった。

ゆがんだ愛情かもしれないが、母が安堵して相好を崩した際には、思いやりの観点から真剣にほっとしたのである。欺瞞でもいいと思った。さほどこの事が人生において重要でもないはずなのに、家族としての関係を根底から崩しかねない可能性に嫌悪していた。

そもそもが、自分の異常が検査表を通してしか発露しないのだから、検査表さえ通過してしまえば、身体機能に何不自由ない子と世間から見做されるのは自明の理である。不条理にはむかう正当防衛のような態度で、嘘をつく罪の意識はその時、ほとんど皆無といってよかった。

ところが、やはりと言っていいのか因果応報の結末が、自分にも見事な契機で訪れてしまったのだ。

検査の予定の最終日。何時ものごとく母と二人きりで治療所に向かっていった。今日で最後だという考えから、ようやく嘘を付き続ける緊張感からも解放されると、気の緩みがあったのかもしれない。もう二度と経験することもないだろう、頭の中への鮮やかな色の電流の送電を終え、プレートが母の手によって机上に立てて示された。いつもの手順で絵の回答を促され、今や九九の回答でもするような一定のペースで、機械的に数字を答え上げていった。

と、ふいに母の表情が意外にも険しく歪められた。

しまった。解答を誤ってしまったか。

そう慌てふためく瞬間にも、母の表情は考え込んでから疑心暗鬼に駆られるという風に変容して、体勢を取り直す間もなく攻撃が開始された。順番を違え、指の示す絵の位置を行ったり戻ったりと試す様に答えを急かして質問がなされる。それでも元より裏面の数字は全て絵と合致して暗記していたから、ほとんど全ての数字は照合した物だと思う。

いずれにしろ失った信用は二度と取り返す事は出来なかったが。

帰り道、無言でとぼとぼと寂しい街の路地を連れ立って歩いていると、初めに治療の調子を聞かれた地点と同じ位の所で、唐突に振り向いた母が重い口を開いた。

力ない口調で最初からずっと解らなかったのと詰問され、もう首肯して認める他なかった。二人どうしようもない疲れが、一編に体に押し寄せてくるような気がした。

「色は見分けが付くのね」

と続いて母の口から念を押されて、ここだけは少し元気付いて、自己の固く信ずる事実を明言した。最もこれは母の中では、最初から余り重要ではなかったのかもしれない。それから二人また無言になって向きを元に返し、うす汚れた歩道の上を踏みしめて進んでいった。

実家に帰ったその後、特に両親から咎めを受ける事もなく、家にはいつのまにか二つの学校の検査で使用される色覚異常検査表がこしらえられていた。無論使い道と目的は一つしかない。

しかし、学校でそれから進級するに従って行われる身体検査には、色覚検査表はついぞ使用される機会は訪れなかった。隔てた年数に調べられた色覚検査をする際でも、顕微鏡に目を通して奥に映る単色を答えればよいという風に、何故か試験は簡略化され、まるで以前の検査内容を否定しているようにも見受けられた。

ついでに自分の首を絞める話をすれば、過去に受けた県警の2次の試験にて、身体検査の一つとして色覚検査表が用いられた。そして性懲りもなく私は、我が家の居間の引き出しの中に眠る同質の検査表を掘り出して、すっかり暗記した中身を本番で答え上げたのだった。

万一に採用の誉れに授かれば、この文章は自分の悪意のない罪を告白する趣旨になったのだろうが、幸か不幸か、半端な人生が災いして試験は不採用となり、不正は見事帳消しとなった。このように今でも一向に私は自分の犯した罪に悪気を抱かず、むしろ当然の権利だと主張する不始末である。このふてぶてしさは、この文章の吐露によって、大いに非難されうるべきであろう。

あの時にとった判断は、結果に係わらず後悔の念だけは兆してこなかった。ただ漠然と如何ともしがたい矛盾に翻弄される寂寥感をひしひしと感じていた。

矛盾に対するのは矛盾でしかないのか? 

この嘘は検査表を通してばれて、検査表を通さなければ、誰も真偽を窺い知れない矛盾の生み出した見事な嘘なのだ。

幾重の思惑が重なって織り成した貴重な体験として、私は今までこの思い出を非常に大切に胸の中に仕舞っておいた。後々にこの経験が自分の成長にいかなる影響を及ぼしたかと自問すると、さしたる例は挙げがたい。

ただ一つはっきりしている事は、気が付けば私は目に見えない何かを追い求めるようになっていた。


                                   了

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