琥珀艇 星のXYZ

著:松藤 よしき

星のXYZ

「いらっしゃいませ」
 バー・琥珀艇に入ってきたのは、女性だった。ストレートの黒髪を肩の上ですっきりと整え、淡い青のシャツに紺色のパンツスーツを自然に着こなしている。腰の辺りでわずかに絞ってあるジャケットは、彼女の女性らしさを強調していた。
 黒鷲号のギネヴィア嬢に似ているな。それが、マスターが彼女に抱いた第一印象だった。
 彼女は店の中に一歩入っただけで、立ち止まる。店を見回して、途方にくれたように左手を頬に当てた。
 パノラマのように星々が見える窓際の席、ゆったりとした木の椅子に座れる丸テーブルの席。そして、マスターに向かい合うカウンターの席。
 店には彼女以外に客はなく、どの席も静かに彼女が座るのを待っていた。
 彼女の目がマスターを見る。マスターはにっこりと微笑んだ。つられて彼女も微笑む。左の頬にえくぼが浮かぶ。知的で気の強そうな彼女の印象が、一転して可愛らしい女性に変わった。
 マスターの微笑みに誘われたように、彼女はカウンター席に座る。マスターは彼女を見守った。
「え、と」
 マスターを見上げて、言葉を探す。
「ご注文とコインを。このバーはどのお飲み物も1ドリンクで1公用銀貨頂いております」
 マスターが告げると、彼女は頬を赤らめた。ハンドバックを開けて、財布を探す。財布の中に公用銀貨はなく、かわりに公用金貨を彼女は見つけた。
「おつり、あります?」
 マスターの大きな手の中に、彼女はその金貨を落とした。不安そうな彼女へ、マスターは目を細めて笑んで見せた。
「公用銀貨4枚で公用金貨1枚の価値としていますが、よろしいでしょうか」
 丁寧に尋ねる。地方によって金と銀の価値が違う。そのため、公用銀貨2枚で公用金貨1枚だったり、公用銀貨5枚で公用金貨1枚に相当したり、まちまちだった。
「ええ、中央の相場は公用銀貨4枚だったわね」
 マスターは軽く頭を下げると、カウンター下の引き出しへ金貨を終い、3枚の銀貨を取り出した。指先ですっと広げて、彼女の前に置く。コインは半分ずつ重なって、きれいな扇型を作った。
「ご注文は?」
 改めて尋ねられて、彼女は狼狽えた。
「私、お酒の名前はあまり覚えていないの。メニューリストか何かあります?」
「申し訳ありません。先代の頃より、この店にはメニューがありません。もしよろしければ、お客様がどのようなモノを飲みたいのか、おっしゃっていただけますか?私がそのご要望に合ったカクテルを選択いたします」
 マスターが言うと、彼女は視線を右へ寄せて考えた。人さし指をサクランボ色に塗られた唇へそっと当てる。そして、おもむろに口を開いた。
「アルコールはそんなに強くなくて、酸味の利いたモノが飲みたいわ」
 目で、「何かある?」と尋ねてくる。
「炭酸で割ったものと、割らないもの。どちらがよろしいでしょうか」
 微笑みを絶やさぬまま、マスターが尋ねる。
「割らないものでお願い」
 彼女が言うと、マスターは目を伏せて頭を下げた。
「かしこまりました」
 マスターは下がって、カクテルを造り始めた。棚にある沢山の瓶から、一つを取り出す。そして、冷蔵庫から鮮やかな黄色のジュースが入った瓶、最後に冷凍庫から透明な酒瓶をとり出して、台の上に並べた。それらの瓶の中身を、順にシェイカーへ量り入れる。ふわり、と、グレープフルーツが香った。
 やがて、シェイカーの中で氷が踊る音が聞こえた。最初はゆっくり。それから、だんだん速く。そしてゆっくりとトーンダウンする。
「お待たせいたしました。『海風』でごさいます」
 コルクのコースターを敷き、マスターは背の低い、ちょっと太めのグラスを置いた。すっきりした形のグラスには、底の方には細かな、上へ行くに従って、荒く、すっ、すっと線を引いたような切り込みが入っている。それらの切り込みは、照明のオレンジの光をグラスの表面に留めていた。
 グラスの中には、柔らかいピンク色の液体が広がっていた。その中を透明な氷が静かに浮かんでいる。
 グラスを持ち上げると、グレープフルーツの鮮明なさわやかさの間に混じって、ベリー系の甘酸っぱいにおいが彼女の鼻孔をくすぐった。
 ゆっくりと一口、喉を潤す。グレープフルーツ独特の酸味と苦味が、口の中に広がる。
「おいしい」
 ほっと漏らした彼女の言葉に、マスターは表情を緩ませた。ハシバミ色の瞳が嬉しそうに細められる。

 *     *

「あの人、どんな顔をするかな」
 何を注文して、どんな話をするのだろう。酒瓶が並ぶ棚を見上げて、ふと思う。
 彼女には好きな人がいた。学生時代の友人で、この半年前に再会した人だった。
 彼は、ずっとシリウス系の星で働いていた。彼女はアンドロメダ8系。彼が転勤で彼女の星に現れるまで、ずっと音信不通だった。
 共通の知り合いからの連絡で、お互いの存在を知った。それから、何となく連絡を取り合うようになった。街を移動したばかりで戸惑う彼へ、彼女は友人として力になったつもりだ。
 彼も、初めての土地で再会した友人という気安さで、彼女に何かと相談した。
 友人が、好きな人に変わったのはいつからだろう。会うときはいつも週末の飲み屋で、酔った勢いも多分にあったと思う。
 自覚したのは、己の嫉妬心に気付いたときだ。いつものように飲んで、いつものように話を聴いて。別れた後に心の底で渦巻く黒いものを感じた。それは、墨を溶かした水あめを連想させる、どろどろした黒い塊。彼が話していた後輩の女の子がその原因だと認識したとき、タクシーのバックミラーに写った彼女の顔が荒んだ。
 その子に気がある様子で話しながら、それでも、彼は何かと彼女を頼った。頼られて、彼女は振りきることが出来なかった。そしてその分だけ、彼女の心はゆがんだ。
「すっぱり手を切りなさい。そいつに貴女はもったいなさすぎるわ」
 彼のことを相談した友人は、彼女に言いきった。
「男なんて星の数だけいるのよ。よりによって、そんな甘えったらしの相手をする必要ないの。いい、貴女に必要なのは、貴女を理解して、貴女を支えてくれる人。貴女、しっかりしているようで甘えん坊よ。自分のこと、分かってる?貴女に必要なのは精神的に大人の人。分かった?」
 友人は酔っていたのかもしれない。据わった目は、彼女を真っすぐ見詰めていた。友人の黒い瞳には、戸惑いを隠せない彼女が映っている。それが彼女にも確認できた。

「星の数だけ、ね」
 体をひねって窓の外を眺める。
 壁一面に広がる星空。中央には暗黒星雲の巨大な頭が影を落としていた。その黒いガスを後ろから照らす青い光。若く、強い星々が影をゆりかごに宇宙の海を漂っている。
「星の数、ですか」
 声に振り返ると、マスターが同じように外を見ていた。彼女の視線に気付いて振り返り、少し肩を竦める。
 彼女は手を伸ばして、マスターにコインを渡した。
「温かいカクテルって、あります?」
 マスターはコインを受け取ると、小首をかしげて考えた。
「そうですね。ヴィダェはいかがでしょう。とある地方の地酒、ならず、地カクテルです。もっとも、ホットレモネードをワインで割っただけの、単純な飲み物ですが」
 ハシバミ色の瞳が、「どうですか?」と尋ねる。彼女は笑顔をマスターに返した。
「そうね。それ、頂くわ」
 マスターは小さな鍋をコンロにかけると、ミネラルウォーターを鍋に注いだ。程なくして、水が沸騰する。
 冷蔵庫から瓶を一つ取り出す。瓶の中にはレモン色の半透明な液体が入っていた。マスターは瓶のフタをひねると、中の液体を鍋に注いだ。
 レモンの香りがふわりと広がる。
 すぐにコンロの火力を弱める。レモンジュースの瓶を冷蔵庫に戻す。そして、今度はワインクーラーから一つの瓶を取り出した。黄金色の液体がオレンジの照明を反射する。キラリと夕日の黄色がマスターの白いシャツに映った。
 栓の抜ける小気味よい音。そして、ワインが注がれる規則正しい音。
 火を消すと、マスターは卵形のお玉で厚手のグラスに鍋の中身を注いだ。
「お待たせいたしました」
 黄金色の液体が、波の輪を作る。細かな切り込みの入ったオールドファッションドグラス。ヴィダェを注がれたそのグラスは、大粒のイエローダイヤモンドを連想させた。
 レモンの香気を一杯吸い込みながら、彼女はゆっくりとヴィダェを口に含んだ。レモンの酸味、そして、香り高い甘さ。まるで、極上の蜂蜜を溶かしたような。
 温かい物が胸に落ちる。
「甘い。でも……。砂糖、入れました?」
 マスターは答える変わりに微笑んだ。ワイングラスに一口分、ワインの中身を注ぐ。そして、そのグラスを彼女の前に置いた。
「どうぞ、試飲して下さい」
 言われるままにワイングラスを手に取る。そして、恐る恐るワインを口に含む。目を見張るような甘さ。液体を飲み落とした後も、ワインの芳香は舌に甘さの膜を残した。
「トゥキィ・ミディル・フィンガロ。シーズリース星産のワインです」
 マスターは瓶のラベルを彼女の方へ向けた。ラベルには、豊かな水を湛えた川とその川を抱く緑豊かな丘陵の絵が描いてある。きっと、この黄金色のワインが生まれた土地だろうと、素直に想像できた。
「じゃあ、ヴィダェはシーズリースのカクテル?」
「いいえ。サッカのカクテルです。サッカでは甘さを出すのに蜂蜜を使いますが、今回は甘いワインを使ってみました。お味の方はいかがですか?」
 尋ねられ、改めて彼女はマスター特製のヴィダェを口に含んだ。さらりとヴィダェは喉を通り、レモンのさわやかな香りが、ほんのり残る甘さを含んで口に広がる。
「すっきりしていて、美味しいわ」
「それはよろしゅうございました」
 カクテルも極上だが、カクテルを褒めたときのマスターの笑顔もまた、極上なのだと彼女は気付いた。
「美味しい」
 温かい物が胸に落ちた。

*     *

「一つ、尋ねてもいいかしら」
 洗い物を終えたマスターに、彼女は声を掛けた。
「何でございましょう、お客様」
 手を拭いて、マスターは彼女の前に立った。マスターは背が高く、首を伸ばして見上げなければ顔が見えないほどだったが、不思議と威圧感はなかった。ハシバミ色の瞳が、常に優しい光を湛えていたからかもしれない。
「さっき、何故『星の数』に反応したの」
 マスターの頬に朱が走った。
「覚えておいででしたか」
 苦笑を浮かべて、マスターは返した。彼女は右の頬を引いて、口元に笑みを浮かべた。
「ええ、カクテルにごまかされませんことよ」
 笑いながら答える。その彼女に笑みを返してから、マスターは目を細めて窓の外を眺めた。
「星くじを、連想していました」
「星くじ?」
 思わず、彼女は聞き返していた。星くじは半年に一回、宇宙中で売られている宝くじのことだ。当たり金額が高いためか、宇宙で一番人気の高いくじではある。ただ、一回に売られるくじの数は、それこそ星の数ほどあるので、当てるのは雲をつかむぐらい難しい。
 それよりもなによりも、目の前にいるマスターと星くじはイメージ的にいまいち一致しなかった。
 マスターは彼女の口調から、彼女が感じている違和感を察したようだ。小さくため息を吐くと同時に、片足に重心をかけた。
「私にはささやかな夢があります。どんな小さな金額でも良いので、星くじを当てたいという夢が」
「あら。じゃあ、マスターは一回にどれだけ星くじを買っているの?」
 彼女が聞き返すと、マスターは彼女から視線をそらした。そして、カウンターに苦笑を落とす。再び彼女を見た瞳には、困惑の色が浮かんでいた。
「いいえ。思うだけで買ったことはございませんでした。何となく、時期を逃したこともございます。いざというときに外れるのが怖くなって、買わなかったこともございます」
 彼女は首をのばして、背の高いマスターを見上げた。マスターはくすくすと笑い声を上げた。
「そうです。買ったことがありませんでした。それゆえ、悪友に怒られてしまいました。どんな宝くじだって、まず、買わなければ当たるはずがないだろう、と」
「それはそうよ。一枚も買わないのでは、当たる確率は確実に0%よ」
 マスターは首を竦めた。上目遣いに彼女を見る。
「やはり、買わなければダメでしょうか」
「少なくとも当たらないわよ、買わなきゃ。」
 言いながら、自分の言葉が心の中の黒く濁った水たまりに落ちるのを感じた。真っ暗闇の中で、波紋が広がる。『買わなければ当たらない』
 ぬるくなったヴィダェを飲み干し、彼女は3枚目のコインをマスターに渡した。
「XYZ、お願い」
「かしこまりました」
 コインを受け取って、マスターは優雅に頭を下げた。
「星の数だけ人が居て、星の数だけ帰るところがあるけど」
 何とは無しに、彼女は話し始める。吐く息がわずかに熱を帯びていた。
 カクテルを作りながら、マスターは彼女の声に耳を傾けている。彼女には、それが気配で分かった。
「私、好きな人がいて、その彼の帰る場所になりたかったの。帰ってくつろげる場所に。他の時はどこへ行ってもいいから、最後は私のところに帰ってきて欲しいって思っていた。贅沢でしょう?」
 話し終えて、苦笑していた。それを、別の自分が感じている。苦い物が口の中に広がった。
 シェイカーの音が止む。マスターはカクテルグラスに半透明の液体を注いだ。そして、彼女の前にグラスを置く。同時に、マスターは彼女に尋ねた。
「贅沢ですか?では、お客様の帰るところはどちらでしょう?」
 彼女は目を見張った。それは、考えたこともなかった。順当に行けば『彼』になるはずなのだが、それは違うと感じていた。
「私の?私の帰る所?」
「はい、お客様の帰る場所です」
 純粋に、マスターは尋ねていた。不意に、彼女は友人の言葉を「すとん」と理解した。
「考えても、みなかったわ」
「左様で」
 その声に非難するような響きはなかった。「考えたことがない」彼女のその言葉を、マスターはそのまま受け止めた。
 彼女はカクテルを飲みながら考え込んでしまった。
 どれだけ考えただろうか。気が付くとカクテルが半分に減っていた。
 何の脈絡もなしに、彼女はふと、マスターに尋ねたくなった。後から考えると、どこか、それは自分を占うつもりがあったのかもしれない。
「マスター、今度の星くじは買うの?」
 マスターは、拭いていたグラスを下ろした。そして、カウンター下の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「誰にも内緒ですよ」
 彼女に差し出す。それは、一枚の星くじだった。
「内緒って、一枚だけ?」
 カウンターの下にもっと隠しているのだろうと、彼女はなんとなく思っていた。けれど、マスターは微笑んで頷いた。
「ええ、一枚だけです。沢山買って、高額を当てるより、一枚だけ買って、少しでも当たった方が私は嬉しいので。それが、わずかながらでも高い金額なら、尚更嬉しいでしょう」
 予想外の答えに、彼女はただただ目を丸くした。
「でも、当たらなかったら?」
「少し悲しいでしょうね」
「それだけ?」
「はい。星くじはそれこそ、星の数ほど出回っていますし、標準年で半年に一回行われますから。まあ、今回は運がなかったと諦めて、来期にまた、一枚買います」
 にこにこと微笑みながらマスターは答えた。口調に笑いを含んでいるけれど、それがマスターの本心だと、何となく彼女には分かった。
「星の数ほど、ねぇ」
 人と星くじとはどちらが多いのかしら。そんな考えが彼女の頭を走り去った。
 どちらにしろ、買わねば当たらないのは確かなのだ。
「私も買ってみようかしら」
 星くじを返しながら、彼女はマスターに尋ねる。マスターはただ、微笑んだ。
 XYZを飲み干して、彼女は席を立った。
「私がもし、外れくじを引いたら、ここに帰ってきてもいい?マスター」
 カウンター越しに尋ねる。珍しく、マスターは眉根を寄せた。
「私には返答できません、お客様。私はお客様の幸運を願わねばと思いながら、不運を願うことになります」
「あ、そうね。そうね、ごめんなさい。言い直すわ。私の帰る場所をこのお店にしても良いかしら」
 彼女が聞き返すと、マスターはいつもの笑みに戻って、丁寧に頭を下げた。
「いつでもお待ちしております」

 カウベルの音を背に、自分のフネへ向かう。歩きながら、彼女はハンドバックからメールツールをとり出した。
「外れて元々、ね」
 呪文のように呟きながら、メールを作る。
「みぃ らぅんうぃな。 だぅん、そぉ」
 短い、それは星に宛てた手紙。

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