坂の家

著:京蝶晶

「悪いな。もう少しで着く」
 ワイパーを操作しながら、平野がわたしに言った。
 瀬戸大橋を渡って、電車で香川に到着した。琴平駅で下車してすぐ、迎えに来てくれた平野の車に乗りこんだ。それから二時間余り、山道を走り続けている。電車を下りてから、ほとんど山しか見ていない。
 今頃になって、うどん店に立ち寄らなかったことを後悔した。腹は空いてなかったが、本場讃岐には、゛うどんは別腹゛という言葉があったはずだ。
「晩飯は、妹がこしらえる。たっぷり山の幸を味わえ」
「妹さんも、こんなところに、よくいられる──」
「住めば都さ。お前には分からん」
「そうかもな」
 大学同期だった平野に誘われて、連休を利用してやって来たが、平野ほどの男を引きつける魅力が、こんな辺境にあるのだろうか──? ゼミをトップで卒業した平野は、教授の推薦を蹴って郷里で就職した。誰もが耳を疑った。林業に従事するということだったが、平野なら推薦がなくても、思い通りの会社に就職出来たはずだ。
「着いた──。あれがそうだ」
 車が止められた場所に、幹が三つに分かれた、大きな松の木があった。指差された先に、霧雨の中、四、五軒の民家が見えた。
「隠れ里だ」
 シートベルトを外しながら、平野がそんなことを言った。
「隠れ、里……? 何だそれ?」
 初めて聞く言葉だ。
「壇ノ浦で滅んだ平家の人間が、源氏から逃れて隠れ住んだ里だ。それで、こんな辺境にある。さ、下りてくれ」
 平野に促されて車から下りた。屋敷(家と呼ぶより、その方が相応しい)を仰ぎ見る。目測で五十メートルほど。かなり傾斜のある、細くくねった道だ。
「気をつけろ。雨で緩んでいる」
 一軒の屋敷の庭に入った。玄関の前で立ち止まる。
「ここか──?」
 平野はうなずいて、それから引き戸を開けた。
「二名様ご到着だ」
 入ってすぐ、八畳ほどの広い土間になっていた。左手に真っ黒い三枚の引き戸があって、その一枚が開き、中から年配の女性が顔を覗かせた。
「母さん。大学で一緒だった池部友波。ちょっと変わった名前だけど」
 わたしは、少しむっとしながらも、
「池部です。二日ほど、ご厄介になります。これはつまらないものですが、よろしければ皆様でお召し上がり下さい」
 大阪から持って来た、老舗和菓子の詰め合わせを差し出した。
「つまらないものを、オレ達に食えと──?」
「これ」
 と、母親が息子をたしなめた。
「すいませんねぇ……。お気遣いなど、いりませんのに……」
「いえ。本当にありがたく思っております」
「ま、こんな奴だ」
 土間を上がると、四畳の畳敷きの部屋になっていた。そして、その奥に仏間、座敷と続いていた。わたしは座敷に通された。
「すぐ、お夕飯に致しますから」
 母親はそう言って、座敷から姿を消した。
「タバコ吸っていいか──?」
「その灰皿を使ってくれ。ま、楽にしてろ」
 座敷の広さは十畳もある。それに床の間がついている。床の間には青磁の香炉が置かれ、平野が言った通り、尋常の家ではなさそうだ。それを見越したかのか、
「築、三百年だ。その香炉は、平家の公達が使ったもので、出すとこに出せば、」
 そう言って、指を一本立てた。
「百万か──?」
「馬鹿を言え。一億だ。元々は清盛公の持ち物だった。文献にも、そうある」
「本当か──」
「嘘を言うか。特別な日しか出せんのだぞ」
「特別な日──?」
「ああ。お前が来るからな」
「まさか──」
「ははは。ま、そんなこと、どうでもいいじゃないか」それから腕時計を見て、「まだ、少し早いか──」
 言うがなり、畳に横になった。
「おい。トイレはどこだ──?」
「向こうだ」
 横になったまま指差した。さっき上がった玄関の方だ。四畳間から、奥に続く廊下があった。それを進むと、障子が開いている部屋に突き当たった。そこは台所だった。若い娘の姿が見えた。これが平野の妹だった。わたしに気がついた。
「トイレを探しているのですが……」
 すると彼女が、
「こちらです」
 トイレまで案内してくれた。
 わたしは、彼女の美しさに驚いた。抜けるように色が白く、これぞ黒髪という長い髪が腰まで届いていた。背の高さもほどよく、何よりも目が綺麗だった。
 座敷に戻ると、やや本腰で眠りかけていたらしい平野が、目を開けた。
「あったか──?」
「妹さんに会ったよ」
「そうか」
 そう言って、寝タバコに火をつけた。
「CMの製作会社だろ。アイドルに会えるか──?」
「オレは経理だから関係ない」
 話題を変えた。
「平野の平は、平家の平だな?」
 平野は起き上がると、タバコの火を消した。
「その通り。我々の祖先は、重盛公の姫君をお守りして、この地に落ちて来た」
「しげもり? ──おい。重盛と言えば、確か清盛の息子で、言うなれば平氏の直系じゃないか──」
 平重盛の娘──ひょっとして、平野にもその血が入っているのではないか──? 例えば江戸の諸藩では、藩主の姫君が臣下の妻に迎えられることが、頻繁に行われていた。そして、平野の妹の美しさこそが、それを証明しているように、わたしには思えるのだ。
 だが、こんな美しい妹がいたとは……。そう言えば、平野は昔から家族の話をしたがらなかった。
「重盛か……」
「ああ。姫君の直系は、跡絶えたがな」
 それで、清盛の香炉が、ここにあるのだ。間違いない。わたしの想像は、きっと当たっている。
 そのとき、料理が運ばれて来た。母親と妹が、料理を並べてくれた。時刻は、ちょうど六時を過ぎた辺りだった。テーブルの上に、山の幸の天ぷらが並べられた。
「さあ。どうぞ召し上がって」
 母親に勧められた。
「遠慮するな。都会人には珍しいご馳走のはずだ」
 平野の言う通り、こんなのを街中で食べようと思えば、料亭にでも行くしかない。一度、田舎のペンションで、この手の料理を食べたことがあるが、それはそれで美味かったが、どこか観光ずれしていて、天ぷらの隣に市販のシューマイが添えてあったりで、はなはだ興を削がれたものだ。二年前。二十六のときだ。
 母親は、奥に下がった。
「おい。酌をしてやれ」
 平野が妹に命じた。
「いいよ」
 わたしは断った。だが、彼女は、
「どうぞ」
 と、嫌がりもせずに、酌をしてくれたのである。
「もう下がっていいぞ」
 平野が言うと、
「はい」
 と、言って、彼女は奥に下がって行った。
「どうだ──? 今頃の娘とは違って素直だろう」
「ああ」わたしはうなずいて、「名前は──?」
「敦子だ」
 敦子……。そう言えば、平家の公達に敦盛というのがいた。
「ところで、親父さんは──?」
 話題を変えた。
「急な用事で出かけた。暫く帰らん」
 平野は、一旦、箸を置いた。
「そうか。しかし、こんな辺境に、女二人置いて大丈夫か──?」
「何だ? 心配してくれるのか──? なに。平家の霊が守って下さる」
「平家の霊?」思わず聞き返した。「何だそれ──?」
 すると平野は、
「霊とは魂のことだ。なあ。人が死ねば、その魂はどうなると思う──?」
「どこにも存在しなくなるんじゃないか?」
「そう思うか──?」
「じゃあ、どうなる?」
「その前に、そもそも魂とは何か──それは、宇宙の対極なんだ」
「それは、脳が一つの小宇宙ということか──?」
「いや。そうじゃない。──例えば磁石にはSとNの二極がある。それから、電極にはプラスとマイナス。我々人間も、男女の違いがある。では、魂の対極は? それは、宇宙そのものではないのか──? 魂とは物質に対極するもので、つまり、宇宙の始まりから存在しているんだ。それが人の姿を借りたり、或いは、人間以外のものに宿ったりする。要は、我々は宇宙の対極である魂の入れ物なんだ」
「……」
 少々呆れた。頭のいい男だが、少しばかり浮世離れしている。
「ま、いいさ。ところで、料理の方はどうだ──?」
「美味い。本当に今日は来てよかったよ」
「道中、文句を言った甲斐があったか」
「まあな」
 食事の後に風呂に呼ばれた。それから夜の十一時ごろまで話をして、長旅で疲れてもいるし、そろそろ眠ろうかというときになって、
「隣の部屋で寝ろ。オレは奥で寝る」
 平野が言った。
「いいとも」
「じゃ。おやすみ」
 平野が去った後、隣の部屋の障子を開けた。広さは六畳くらい。壁の際に、古い屏風が立ててあった。見ると、壇ノ浦合戦図である。壇ノ浦は、平家終焉の地だ。
 既に、布団を敷いてくれていた。布団にもぐったとき、激しい雨が降り始めた。雨戸を通して、外の草木に雨粒の叩きつける音が聞こえた。
 だが、長旅に疲れたわたしには、何の支障にもならなかった。

     ●

 何だ──?
 誰かが布団に入って来た。それと同時に、部屋に香の匂いが漂い始めた。
 若い女性らしい。そうなれば、相手は一人しかない。
 平野の妹だ。
 わたしは、たまらなくなって、彼女に背中を向けた。だが、少々切なくもあった。
 どうして、彼女がこんな真似を──? 頭がおかしいのか──?
 それとも──。
 彼女の内面は、容姿とは全く異なり、魔性を得ているのだろうか……?
 いや違う。これは、この辺りの風習なのだ。その昔、辺境の地では、客に女性をあてがって、もてなしていたと聞く。だが、平野は都会で暮らした経験もある現代人だ。
 全く見当がつかない。しかし今、わたしの布団に、平野の妹がいるのは事実だった。
 雨足は、ますます激しくなる。それに、この匂いだ。
 匂いの発生源は、ひょっとして、あの香炉ではないか──? 例の、清盛の香炉である。では、香を焚いたのも、彼女なのか──? 一体、わたしはどうすればいいのだ……?
 時間の過ぎる中、やっとわたしは決断することが出来た。
 完全無視する。それ以外になかった。たとえ彼女の意思であっても、平野の妹に手を出すわけにはいかない。
 明け方近くになって、彼女は布団から出て行った。わたしは、布団に入ってからの出来事を、全て夢だったと思うことにした。
 七時に朝食の用意をしてくれた。だが、全く食欲がないのか、平野は箸さえ取らなかった。
「どうした?」
 平野は、一瞬、顔を歪めたが、
「何でもない。ちょっと気になることがあってな」
 食後、平野に従って散歩に出た。
 昨夜の雨で、山の空気が一層、浄化されたらしい。木々の芽が吹き出して、透明な日光が惜しげもなく暖を与えていた。風はそよぎ、空には一点の曇りもなく、山の輪郭が切り絵のように鮮やかだった。小鳥の囀りも心地よく、全く、時間を忘れてしまいそうだ。岩に腰をかけると、地面から若草をはらんだ土の匂いが立ち昇った。
「悪くない」
 思わず、わたしは口にした。
「何だ──?」
 平野が問うた。
「こんな辺境も悪くない」
「ほう」
「それに、分からなくもないな」
「何がだ?」
「敦子さんの気持ちさ」
「ほう?」
「都会の便利を忘れれば、田舎暮らしもいいかも知れん」
「都の暮らしを知らなければ、か」
「都だと──?」
 わたしは聞き返した。すると平野は、
「八百年前、オレの祖先は主君の姫君を育てるのに、この地を選んだ。そのとき、姫はまだ七つだった。肉親は一人もなく、都を思い起こさせるものも、一つとしてなかった。──痛ましい……。見ての通りの辺境だ。暫くの間、姫は泣いて暮らした。都に帰りたいと、駄々もこねた。
 しかし、都に帰ってどうなる──? 姫君ゆえ、殺されはしなかっただろうが、都にあるのは、一生涯続くであろう日陰の生活だ。それなら、ここに留まる方が、よっぽど増しだ。オレの祖先は、姫のためなら、どんな苦労も厭わなかった。姫の希望を、可能な限り叶えた。そのためには、山賊まがいのことまでした。ところが──」
「ところが──?」
 又も、わたしは聞き返した。しかし、平野は、
「いや。よそう。今度は向こうの山を案内しよう」
 平野は歩き始めた。
 昼食前に屋敷に戻った。わたしは、持って来た雑誌で時間を潰した。
 平野の妹が昼食を運んで来た。山菜の天ぷらに混じって、妙な黒い干物が添えられていた。長さ五、六センチある。それを箸でつまんで、
「何だ──?」
 平野に聞いた。
「山椒魚の干物だ」
 こともなげに答えた。
「山椒魚──? それって天然記念物じゃないか」
 よく見ると、確かに四本の足があった。だが、からからに乾いているので、それほどグロテスクでもない。
「それは大山椒魚だ。こいつは問題ない。もっとも、数が少ないので、めったに見つからん」
 そう言って、口に含んだ。
「大丈夫か……?」
「何を言ってる。すごく貴重なんだぞ。漢方薬で買ってみろ、一匹が二、三万もする」
「そんなに、するのか──?」
 四、五匹の山椒魚が、わたしの皿に載っていた。これだけで十万以上だ。
「一体、何に効くんだ──?」
「食欲不振、精力減退、疲労回復。──漢方だから副作用もない。何だ? 食べんのか──?」
 いつまでも箸をつけようとしないわたしに、平野が言った。
「いや。いただくよ」
「実はな、我々一族の秘密の狩猟場がある。乱獲さえしなければ、実入りのいい副業として成り立つんだ」
 つまり、この山椒魚は、平野一族の一種の収入源になっているのだ。
「だから、遠慮するな。それとも、気持ち悪いか──?」
 仕方がない。一匹を口の中に放りこんだ。特に味はなかった。味のないスルメみたいだった。
「全部食え」
「だが、妙に精力がついても困る」
「なあ。昼から川釣りをしないか──?」
「いいな」
 渓流なら、見ているだけで楽しめる。車からも、ちらちらと眺めた。
「そうだ。敦子も連れて行こう」
「ああ。にぎやかな方がいい」
 喜んで同意した。昨夜の出来事は、あれは夢なのだ。
「よし。さっそく敦子に言ってこよう」
 平野が席を立った。わたしは最後の山椒魚を口に含んで、まじまじと床の間の香炉を眺めた。
 平野によると、平清盛が使っていた香炉だ。わたしは昨夜の匂いを思い出した。それを確かめるために、香炉に顔を近づけた。
 確かに、この香炉が匂いの発生源であった。残り香で、そうと知れた。
「どうした──?」
 気がつくと、平野が妹を連れて、わたしの後ろに立っていた。
「行くぞ」
「も、もう行くのか──?」
「ああ。沢山釣って、今夜の夕飯にしよう」
 三人で、渓流まで下りて行った。竿は二本しかなかったが、敦子さんは釣りをしないそうだ。
 十分ほど歩いて、渓流に出ることが出来た。
 大小様々な岩が転がっていた。大きいのは、わたしの背丈を越えていた。
 餌は平野の自家製だった。小麦粉に魚の好きそうなものを混ぜただけのものだ。
 ポイントを探って移動している内に、平野達とはぐれてしまった。魚篭は、まだ空っぽだ。  
 一時間ほど、一人でうろついた。川から離れない限り、迷子になる心配はない。喉が渇けば、持たせてくれた水筒の水を飲んだ。
 魚が、なかなかかからないのは、センス以前の問題であろうか──? 常識的なマナーを、どこかで外しているのかも知れない。
 だから、やっと一匹釣れたときは、本当に嬉しかった。名前は分からないが、十五センチくらいの美しい魚だった。
 ひょっとして、平野に自慢出来るかも知れない。そう思って、大切に魚篭に入れ、水に流されないように注意して、川の水に浸けておくことにした。
 景色の美しい場所だった。暫く、ここで釣りを続けることにしたが、余りに釣れないので竿を置いて岩の上に登った。身長よりも高い岩だが、形が歪で足がかりがあるので、簡単に登ることが出来た。
 高い場所に登れば、何か自分が大きくなったような気がする。子供が、木に登ったりする理由の一つが、これだ。
 岩の上から周りの様子を眺めたとき、わたしは腰が抜けるほど驚いた。
 裸で水浴びをしている彼女を見つけたのだ。平野の姿はなかった。
 ようやく、わたしは悟ることが出来た。奔放なのだ。彼女の性質は、見かけとは全く違う。
 川の水は、非常に澄んでいる。そして、裸でも寒くない時期だ。わたし以外の見物者もないだろう。
 だから、彼女の裸を見てはいけないのだ。
 わたしは岩から下りた。そして、再び釣りを始めた。

     ●

 平野の屋敷には、それでもテレビがあった。テレビは、敦子さんの部屋に置かれていた。広い屋敷に、テレビは一台きりなのだそうだ。
 彼女の部屋は六畳ほどで、床に淡いピンクのカーペット、本棚の上には人形が飾られていた。整頓された、女の子らしい部屋だった。
 電波の届きが悪く、見られる番組は限られていた。わたし達三人は、季節外れのコタツに入って、テレビを見ていた。番組自体は、あまり面白くなかったが、間近に彼女を見られるチャンスだった。
 途中、平野が席を外したので、二人きりになってしまった。もちろん、口説くつもりはない。彼女も、全く悪びれてなかった。あれは本当に夢だったかも知れない。
 平野は、なかなか戻って来なかった。
 その間、彼女と話をした。間近に接した彼女は、普通の若い女性と変わりなかった。ドラマ、バラエティ、音楽、映画など、驚くほどの情報通だった。
 平野が席を外して一時間ほどした辺り、コタツの中のわたしの手が彼女に握られた。
 ちょうどそのとき、平野が戻って来た。
「やあ済まん。ちょっとお袋に頼まれごとをしてね」
 妹の正面に座った。
 彼女の手が、わたしから離れた。入れ替わりみたいに、彼女がコタツから出た。
「何だ──?」
 平野が言った。
「夕食のお手伝い」
「もう、そんな時間か……」
 平野が腕時計を見た。時刻は、五時になろうとしていた。
「何か言ってたか──?」
 平野が聞いた。妹のことを尋ねたのだ。彼女との会話を話してやると、
「ふーん。でも、結構、間が抜けてるだろ?」
「そうか?」
「そうさ。頭は悪くないんだがな……。明日、帰るのか──?」
「ああ。ちょっとあってな」
 連休は明後日までだが、明日帰れば、帰省している姉夫婦と会える。甥っ子も、大きくなったろう。
「そうか」
 それっきり、平野は黙ってしまった。

     ●

 夕食は六時ちょうどに始まった。今日は、四人で食卓を囲んだ。場所も、奥の居間である。
 結局、わたしは一匹しか釣れなかったが、平野が七匹も釣っていたので、全員に二匹ずつ魚が行き渡った。
 わたし達が釣ったのは、゛あまご゛という魚だそうだ。一匹を塩焼きにして、もう一匹は甘露煮にされていた。どちらも大変美味く、文字通り、ほっぺたが落ちそうだった。
「オレから離れていたとき、何してたんだ──?」
 平野が妹に聞いた。
「内緒」
 彼女は、そう答えた。
「お前、一生、ここにいろよ」
 唐突に平野が、わたしにそんなことを言った。
「ああ。それもいいかも知れん」
「本当!」
 そう言ったのは、敦子さんだった。わたしの勘違いでなければ、彼女は喜んでいるように見えた。
「息子が二人になると思えば頼もしいわ」
 母親が言った。
「林業を手伝わんか──?」
「それも面白そうだ」
 平野の言葉に調子を合わせた。しかし、明日の昼には出発する予定だ。確かに、年に一度くらいなら、ここで過ごすのも悪くない。山菜も、新鮮な川魚も魅力的だが、それもたまに味わうからだ。
 食事を終えると、平野と二人で座敷に戻った。少し後に敦子さんも顔を見せたが、九時には自分の部屋に引っこんだ。
 持って来た雑誌も一通り目を通したし、平野との話題も途切れたので、他にすることもなく、風呂に入った後、もう床に入るしかなくなった。平野も奥の部屋に下がり、わたしは隣の部屋に移って眠りについたのである。

     ●

 それに気づいたのは、午前零時過ぎだった。居間の方から聞こえて来る、柱時計の鐘の音で分かった。
 布団の中に彼女がいた。香の匂いも漂っていた。今夜ばかりは、さすがに無視出来なかった。
「眠れないの?」
 冷静に考えれば、どうにも馬鹿みたいだが、布団の中で、彼女はうなずいたみたいだった。
「昨日も来たね」
「ええ」
 燃えるような熱い息を吐いた。
 彼女は本気だった。少なくとも、わたしにはそう思えた。これは危ない。
 夕食のとき、平野は、「お前、一生、ここにいろよ」とか、「林業を手伝わんか──?」などと言っていたが、こんな辺境に住もうという人間は、なかなか現れないだろう。
 確かに彼女は魅力的だ。だが、それと引き換えになるものの大きさを考えると、とても手出しは出来ない。
 わたしは彼女の手を取ると、
「こうしてよう」
 手を繋いで、そのまま朝まで過ごした。ひょっとしたら、彼女を傷つけたかも知れないが、これが最上の策だと思った。
 やはり明け方近くになって、彼女は布団から出て行った。危ういところで切り抜けた。だが、それは間違いだった。
 朝食のとき、いきなり平野が切り出した。
「何故だ? どうして敦子に手を出さん? スタミナ切れかも知れんと思って、山椒魚まで食わせてやった。お前、まさか女に興味ないのか──? いや。そんなはずはない。一体、どうしたんだ──?」
 あまりのことに、平野の言葉の意味が、すぐには分からなかった。
「説明しろ! 何故、抱かん? 敦子に魅力を感じんのか?」
「そんなことはない……」
 わたしは、しどろもどろだった。もちろん、彼女は魅力的な女性だ。
「なら、どうして!」
「どうしてと言われても……」
 言葉に詰まった。
「いいか!」平野は言った。「敦子に手をつけるまでは、ここから帰さんからな!」
「馬鹿な──」
「帰りたいなら、言うことを聞け。まあいい。今夜こそ必ず、そうしてもらう」
「今夜だって──」
「連休は明日までだろ。嫌なら一人で帰れ。歩いてな」
「無茶な──」
「聞け。我らの祖先は、重盛公の姫君をお守りして、この地まで逃れて来た。年頃になると青年をさらって来て、姫との間に子供をもうけさせた。その後、直系は跡絶えたが、まだ傍系が残っている」
「お前と敦子さんか──?」
 わたしは悟った。最初に想像した通りだった。
「確かに、オレもそうだが、」平野は続けた。「家祖がそうであるように、現在の当主は敦子なんだ」
「なら、彼女に相応しい男性を見つけて、婿に来てもらえばいいじゃないか」
 これが正論だ。彼女なら、絶対に見つかるはずだ。
「分からん奴だ。姫にそうしたように、敦子にも同じ方法で婿を与える」
「オレに、ここに住めと──?」
「そうじゃない。抱いてくれるだけでいいんだ」
 それで、理解した。求められているのは、わたしではなく、二人の間に産まれる子供なのだ。平野は、そのためにわたしを、ここに連れて来たのだ。
「しかし──。敦子さんは、それでいいのか──?」
 男のわたしが、躊躇するのだ。
「いいも悪いも、平野家の仕来たりだ」
「それほどまでして、仕来たりを守る理由は何だ──?」
「血だ」平野は言った。「平家の血だ」
「そんなもの断ち切れ」
「無理だ。だが、どちらにしろ、今夜も泊まってもらうからな。どこに行く──?」
 席を立ったわたしに、平野が言った。
「散歩だ」

     ●

 わたしは、外に出た。平野には悪いが、ここから逃げ出す。平野の車で来たのだから、歩くしかなかった。車で二時間以上の道程──。荷物は諦めることにした。幸い、財布と携帯は、いつもの習慣で身につけていた。
 坂を下った。後を追って来る気配はなかった。高をくくってるのか──? 少し惜しい気もする。馬鹿な男の感傷だ。
 道順の記憶は、ほとんどなかった。幾つもの脇道があったが、その一つを間違えれば、一体、どれくらいロスが出るのか──。
 道は、どこまでも続いている。だが、正しい道となれば限定される。ないとは思うが、山中で飢え死に──。まさか。今、始まったばかりなのだ。
 腕時計で、一時間歩いた。しかし、一台の車とも出合わなかった。
 道が、渓流と分かれた。渓流は、峻険な渓谷を流れるようになった。
 昼になっても、目に見える進展はなかった。山の峰が、いつまでも視界に居座り続ける。そんな具合だから、街に近づいているのか、或いは遠ざかっているのか、それさえ見当がつかなかった。
 携帯は、一度も繋がらなかった。全く役に立たない。
 十時間後、わたしは古い小屋の前で座りこんだ。
 午後六時──。すっかり日が暮れようとしている。ここで夜を明かして、明日は朝から歩くことにしよう。
 鍵はかかってなかった。床は土で、もちろん電気もない。
 脱いだ上着の上に横になった。くたくただ。
 とうとう、一台の車とも出合わなかった。本当なら、今頃は自宅で、くつろいでいる。風呂に入って、ビールの一杯もやっている。
 連休は明日までだった。楽天的に考えれば、時間は、まだたっぷりとある。
 もし、平野の言うことを聞いていたら──。今夜も美味い夕食をご馳走になって、それから……。
 だが、これで正解だ。一年後のわたしは、このことについて、どう考えているだろう……?
 寝よう。考えても仕方がない。日の出とともに歩こう。しかし、とんでもない一日だった。

     ●

 夜中に目を覚ました。誰かが、わたしの頬を叩いた。顔に、懐中電灯の光が当てられていた。
「平野──!」
 平野がいた。
「探したぞ。一緒に戻ろう」
「放っておいてくれ。オレは一人で帰る」
「それはいいが、この調子では会社に間に合わんぞ」
「本当か……?」
「下手をすれば、捜索願を出されかねん」
「──道を教えろ」
「何も目印のないところで、道を聞いてどうするつもりだ──?」
「……」
 いきなり平野が土下座した。
「頼む。敦子と寝てくれ。お前には何の負担もかけん。でないと、代々の仕来たりが、オレの代で途切れてしまう。頼む。この通りだ──」
「平野……」
「助けてくれ──」
 わたしは、平野という人間を知っていた。嘘はつかない男だった。今の言葉も本当だろう。わたしは、古い仕来たりを守り続けて来た平野家の業に、すっかり同情してしまった。
「分かった……」
 わたしは言った。
「本当か……?」
「ああ。本当だ」
 一個の男性として考えれば、決して悪い話ではない。彼女が平野の妹であることを差し引いても、若くて美しい女性を抱けて、その上、何の責任も取らなくていいのだ。
「明日中には帰りたい」
 決断した。
「もちろんだ」
 わたしは平野の車に乗った。
「どのくらいで着く?」
「五分くらいだ。一キロと離れてない」
「嘘だろ──?」
 正直、驚いた。最低でも二十キロは歩いたはずだ。半日かけて、同じ場所を、ぐるぐる回っていたらしい。
 平野の言った通り、五分で到着した。車から下りて屋敷に入った。
「まず、風呂に入れ」
 風呂に案内された。それから自分の寝室に向かったが、既に布団の中では彼女が横たわっていた。
 香の匂いが漂っていた。

     ●

 目覚めたのは昼過ぎだった。彼女は布団から消えていた。起き出すと、すぐに食事の支度をしてくれた。四人で昼食をとった。
 全員が何事もなかったような顔をしていた。そして、少しも偽善的でなかった。特別なことは、何もなかったという表情だ。
 そうかも知れない。彼らには、これが普通なのだ。と、言うより、安堵しているのだろう。自分達の務めの一つを、無事にこなしたのだから。
 今回も、山椒魚の干物が添えられていた。
「全部食べろ」
 平野が言った。
 もう必要がないとも言えないので、素直に従うことにした。
「後、一日いてもらう」
 食事の後、平野が言った。母親と敦子さんは、席を外していた。
「どういうことだ──?」
「初日を無駄にした」
 それから、昨日のメンバーで、今日も川釣りに出かけた。だが、途中で平野がいなくなった。
「平野は──?」
 すると、彼女がわたしの手を取って、
「こっち」
 案内してくれるようだ。
 だがそこは、昨日、彼女が水浴びをしていた場所だった。彼女は、服を脱いで裸になった。
「来て」

 その後、わたし達は手を繋いで一緒に歩いた。風が、彼女の髪を持ち上げた。美しい横顔。衒いはなかった。わたし達は、公認されているのだ。

     ●

 今夜も魚が出た。今日の釣果は、五匹だった。全部、平野が釣った。わたしの皿だけ二匹載っていた。
「客だからな」
 平野が言った。
「どうした──?」
「いや。ちょっと体が……」
 息切れがして、体中のエネルギーが失われたみたいだ。筋も痛む。理由が思い当たらないわけではないが、それにしても体力の消耗が激しすぎる。
「釣りで疲れたんだ。風呂に入って寝ろ」
「分かった」
 食事の後、風呂に案内された。風呂で気づいたのだが、ひどく体が痩せていた。体重計がないので正確には分からないが、四、五キロは体重を失っている。
 以前、腸を悪くして入院したとき、これくらい痩せたことがある。だが、たった一日では、あり得ないことだ。もしこれが彼女のせいなら、今夜は何もすべきでない。
 だが、寝室に行くと、やはり彼女が待っていたのだ。

     ●

 夜中に目覚めた。恐ろしい夢を見た。夢の中で、わたしは得体の知れない怪物に絡みつかれて、しかも快感に喘いでいた。
 彼女は寝息をたてていた。時間を確かめようと腕時計を取ろうとしたとき、わたしは自分の腕が異様に細くなっていることに気がついた。骨の太さしかなかった。肉が削げ落ちていた。腕だけでない。胸に触れると、まるで理科室の標本模型のように、肋骨が浮き上がっていた。脚もだ……。
 それで悟った。彼女は人間でない。──恐らく、平野の先祖が仕えた、平重盛の姫君の怨霊なのだ。そうとしか考えられない。
 しかし……。
 逃げ切る自信がなかった。又、平野に捕まってしまう。
 どうにかして、逃げなければ──それが出来なければ、間違いなく、わたしは殺されてしまう。
 だが、どうやって──。
 そうだ。芳一だ。芳一を真似るのだ。
 芳一は、体中に経文を書いてもらって、平家の怨霊から逃れることが出来た。そのとき、書き漏らしがあって、両耳を失った。
 枕元の鞄に、マジックが入っている。
 叔父から経を習ったことがあった。短いものだが、今でも憶えている。問題は、背中など手の届かない場所を、どう処理するかだ。髪も剃る必要がある。しかし道具がない。
 待て。シャツに書いて、それを着ればどうだ──? 頭はタオルで隠す。一か八だ。
 明け方、彼女が去った後、わたしは起き上がって、鞄からマジックを取り出した。インクは十分だ。これが駄目なら、わたしはここで死ぬことになる。

     ●

「いない……。気配はするのに、池部の奴、どこに行った……」
 平野が、わたしを探している。
「車は?」
 母親が聞いた。
「ある。キーも、居間のテーブルに残っている」
「きっと外よ」
「ああ。手分けして探そう」
 平野と母親は、屋敷から出て行った。
 わたしは、ずっと寝室にいた。だが、二人には見えなかった。二人とも、人間でなかったのだ。
 到底、信じられぬ。悪夢のような現実だった。
 だが、いいことを聞いた。車のキーは、居間のテーブルにある。
 居間に向かった。確かに、キーはテーブルに置かれていた。キーを取って、居間から出ようとしたとき、あれが居間に入って来た。
 わたしは動きを止めた。
 首をかしげて、こちらを見ている。気配は感じても、やはり見えないらしい。
 気のせいとでも思ったのか、わたしを通り過ぎて台所に入った。
 わたしは、音をたてぬように歩き始めた。
 だが、
 あれが再び、こちらに目を向けた。わたしの足元を見ている。
 何というミス──。足の裏に、経文を書き忘れていたのだ。
 蛇のような大口を開けて迫って来た。わたしは花瓶を取って、そいつの頭に打ち下ろした。それは床の上に転がって、異様な叫び声を上げた。次の瞬間、わたしは命の限り駆け出した。
 車のドアを開けて、キーを差しこんだ。平野も母親もいなかった。だが、そのとき、車の屋根に、何かが跳び乗った。目は裂けて、そこから血が流れ出し、鼻は二つの黒い穴となり、顔一面に血管が浮き上がっていた。変わり果てた、平野の妹の姿だった。
 わたしは、狂ったように叫びながら、思い切りアクセルを踏みこんだ。
 暫くの間、車の屋根に貼りついて、鳥の足のような手でガラスを叩き続けたが、ガラスを破るだけの力はなかった。わたしはスピードを緩めなかった。振り落としたからといって、何の呵責も感じない。当然の報いだ。
 全く諦めようとしなかった。いつまでも車に貼りついて、フロントグラスに顔を突き出し、逆さまにわたしのことを睨み続けた。
「やめろ!」
 わたしは急ブレーキを踏んだ。怪物が、車の前に投げ出された。
「見てろ──!」
 急発進した。怪物の腹を轢いて、そこから逃げ出した。

 わたしは助かったのだ。

     ●

「友達から、逃げて来たと──。そうですね?」
 わたしはうなずいた。
 定年間近と思われる巡査が、自身で書き記した調書を手元に置いて、わたしに質問した。骨と皮状態で、体中に経文を書き散らしているわたしのことを、彼はどう考えているのだろう……。おまけに、下はタオルを巻いているだけだ。
 何もない場所に派出所を見つけた。近くに集落があるのかも知れない。迷わず、助けを求めた。水を飲ませてもらい、何とか息をつくことが出来た。
「しかし、この辺りに平野という家は、一軒もないんだが……」
「近くではありません。でも、場所は分からないのです」
「そう……。では、何か目印になるようなものは……?」
「坂の下に、幹が三つに分かれた、大きな松の木がありました」
「ああ。あそこか……。──車で一時間くらいか。昼には着けるでしょう」
「着けるでしょうって……?」
 わたしを見て、巡査がうなずいた。
「馬鹿な──!」
 思わず、声を荒げた。行けるものか。怪物は死んでも、まだ平野達が残っている。
「わたしが同行しますよ」
 巡査が言った。
 違う! そんなレベルの話ではない!
 平野家に監禁されていたと、わたしは巡査に訴えた。怨霊のことは、一言も話していない。言っても、信じてもらえない。
「拳銃もありますから」シンナーを出してくれて、「顔だけでも、拭いてはどうです──?」
「……」
「ズボンを、お貸ししましょう」
 そう言って、奥に消えた。

     ●

「坂を上ったところです」
 だが、そっちを見ることが出来なかった。恐怖が、まだありありと残っている。
 怪物の死骸が消えていた。恐らく、平野達が始末したのだ。緑色の血みたいなのが、土の上に残っていた。巡査は、それに気づかなかった。
「なるほど。この坂ですね」
 さっさと上り始めた。
「あ──」
 一人にされては堪らない。慌てて後を追った。
 が……。
 そこには何もなかった。屋敷のあった場所が、ただの草深い荒地に変わっていた。
「何にもないですな……」
 あっけらかんと、巡査が言い放った。
わたしは、呆けたようにそこに立ち尽くした。
「帰りましょうか」
 巡査に肩を叩かれた。
 坂を下り、車に戻った。しかし……。屋敷が消えるなんて……。
「大丈夫ですか?」
 気の毒そうに、わたしを見ていた。
「ええ……」
「派出所に戻りましょう」
 あれは夢だったのか──?
 そんなはずがない。こんなに痩せこけている。夢であるはずがない。
 途中、少し眠ってしまった。体力の消耗が著しい。
「着きましたよ」
 巡査に体を揺さぶられて目を覚ました。
「これは……?」
 どういうことだ──? 外が真っ暗だ。
「下りなさい」
「ここは……」
 あの松があった。
「行きますよ」
 巡査が坂を上がり始めた。ヘッドライトが、坂に向けられていた。
 わけが分からない。それでも後を追ったのは、一人は耐えられないからだ。
 だが、平野の屋敷がそこにあった。
「お帰り」
 玄関から平野が出て来た。
「お連れしました」
 平野に敬礼した。
「もう二度と、このようなことのないように」
 そう言って、巡査は坂を下った。
「敦子が待っている」
 平野が言った。その瞬間、わたしは首や腕のない鎧武者に囲まれていた。
「言っただろう。平家の霊は存在するって。敦子にしたことは赦してやる。さあ。中に入れ」
 わたしの肩を掴んだ。武者達が哄笑した。月が雲に隠れる。
 わたしは、その場に崩れ落ちた。
                             了

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