隣人愛
新しく越してきた男は、自分の部屋のテラスのすぐ隣にあるわたしの部屋の窓を覗いていました。たった三十センチ程のその透き間は、男とわたしの距離のようにちょっと手を伸ばせば直ぐに手に入る空間でした。
その男ともやっぱりわたしは目が合ってしまったのです。
*****
わたしが暮らすこの四階建てのビルは、もともと魚屋をしていた祖父の持ち物でした。それをわたしの母が相続したものなのです。
父と別れた母は、このビルの空き部屋だった二階に七歳のわたしと一緒に住むようになりました。当時一階には魚屋をしていた祖父の店がありました。祖父は店の奥にひとりで寝起きしていました。祖母はわたしが生まれる前にとうに他界しておりましたので、祖父も亡くなり、後継ぎの居ない魚屋はもちろん閉店“店じまい”で、シャッターは下りたまま。三階と四階は貸し事務所になっていましたが、この不景気でいまは空き室のままです。どうしても毎月の収入が必要という訳ではありませんでしたので、わたしは不動産屋にも催促もしていません。一人っ子だった母が相続したのはこの土地とビルばかりでなかったのです。贅沢さえしなければ、女ふたりが一生を生きていくには困らない程度、祖父は財産も残してくれましたから。
他の女のところに体も心も行ってしまった父のことが忘れられなかったのでしょうか。父と別れたあとから母は、急に体と心を壊し始めて、いまは郊外の病院の精神科に入院しています。もう十年になります。母が入院してしまうと、その時十歳だったわたしは学校には行かなくなりました。魚屋をしていた祖父の手伝いをしながらいつのまにかわたしも十七歳になっていました。それでも祖父から学校へ行けという言葉を言われた事は一度もありませんでした。
「生きると言う事は、食う事だ」
その代わりにかどうかわかりませんが、祖父がわたしによく言った言葉です。だからわたしは子どもの頃から、料理番組や雑誌を見ては、いろんな料理を覚えるようにしました。
祖父の言う意味はそういうことではなかったのでしょうが、それでも自分の知っている魚料理を孫であるわたしにいろいろ教えてくれました。
もともとお酒に強い人ではありませんでしたので、飲めばビール一本で顔を真っ赤にしていました。
「男にはうまいものを食わせろ。男は食わせりゃ、食わしてくれる」
これも、そんな祖父が酔うときまっていう口癖でした。
「あいつは料理が下手だった。だから逃げられたんだ」
あいつと言うのは母の事です。娘である母のことは時々ぼそっと何か言っていましたが、女のところに逃げた父の事は祖父は決して悪く言いませんでした。わたしも父を悪くいう気は全くありません。ただ父の事はその顔さえも思い出したくはないと思っていただけです。
まだ六十五歳の祖父が亡くなったのは、年が明けたばかりの、底冷えのする朝でした。いつものように市場にバイクで仕入れに行こうとして、店の前で突然心臓発作を起こして死んだのですが、あっけない最後でした。横倒しになったバイクの鈍く唸るエンジン音で目が覚めたわたしでした。今でもわたしの耳元に、ブーンブーンとその羽音のようなエンジン音が耳鳴りのように響いてくる時があります。一生を魚屋で過ごした地味な人生ではありましたが、ほんとうに心(しん)から優しいひとでした。
*****
だから、いまわたしはたったひとりでこのビルを占領している訳です。先月二十歳になったばかりのわたしでしたが、友人と呼べる仲間もいませんでした。淋しいといえばそうですが、気ままといえばこんな自由な暮らしもありません。社会から遮断された隠居生活のような暮らしをするわたしは、同世代から見たらなんだかふやけた人間のように思われるでしょうね。
そんな、わたしの生活に変化が起きたのは、隣の和菓子屋が廃業して、そこが新しいマンションに建て替えられた時からでした。
こんな街中の土地でしたから、新しいビルはわたしの住むビルの壁すれすれに建てられました。クーラーの設置場所の代わりなのかもしれませんが、ちょうどわたしの部屋の窓からほんの数十センチ向こうは隣の部屋のバルコニー風の小さなテラスになっていたのです。日照権とか建築基準法で高さ制限でもあるのか、こちらと同じ四階建てのこじんまりしたマンションでした。
八百屋の店先の井戸端会議に夢中のおばさんたちの話では、このマンションは一階ごとには七畳間の洋室と小さなキッチンの付いた、賃貸のワンルームマンションになっているのだそうです。家賃は一ヵ月七万五千円で、それが安いか、高いか。駅までは歩いていけるけど八万超えると、いまの景気じゃとても借り手はないし、七万五千円だって全部埋まれば、不動産屋の手数料を差っぴいたとしても五十万が丸々入るから、敷金やら礼金やらも考えれば、和菓子屋の善さんは店をたたんで正解だとか。それでも代々続いてきた老舗を閉めたのは勿体無かったとか。そんなどうでもいい事を何時間も喋り捲るそのエネルギーと時間の方がわたしには、とても勿体無いことのように思えました。
工事の覆いが取れた途端、新築のマンションのクリーム色に塗られた壁の臭いは、わたしの部屋のわたしの鼻腔にまでつんつんとしみこんできました。暫くの間は開けたくても窓は開けられず、わたしは部屋の中で息苦しい思いをして暮らさねばなりませんでした。
おまけに隣のビルのせいで、日が差し込まなくなったわたしの部屋の朝はとても遅くなりました。それでも、母の相続したお金のおかげで、わたしも働かずにこうしてぶらぶらしていられるので、わたしの朝が少々遅くなったとしても、用のある時意外は一日中、このわたしの部屋で、好きな料理の本を見たり、テレビゲームをしたりして過ごしていました。
眠る時は大抵裸なのですが、誰が来るという訳ではないし、この暑さですので、この頃は日中もそのまま裸で過ごすことも多くなりました。
ちょっと前までロンというハムスターを一匹飼っていたのですが、そのこもある日ゲージを逃げ出してからは、どこに行ったのか分からずじまいです。所詮はネズミですから、壁の穴でも掘ってどこかで生き長らえていると思いますが・・・いま頃はとっくにこんな退屈な所を出て、もっとスリリングな冒険を楽しんでいるのかもしれません。
*****
夕べも寝苦しい夜でした。その日は朝から気温が30度を越していたようです。眠れなかったわたしがようやく目を覚ましたときは、べたべたとしがみつく汗にシーツも枕もぐっしょりになっていました。ベッドから壁を見上げると、祖父のお気に入りだった鳩時計はとっくに正午を回っていました。
とても暑苦しかったので、わたしは裸のままで勢いよく開けっ放しの窓のカーテンを開けました。目の前に男がいました。インテリのような真面目で頭の良さそうな男でした。眼鏡の奥に、彫りの深い陰影を持つ、ちょっと素敵な男でもありました。ふとわたしたち母子を捨てた父を思い出してしまいました。男に見られたからではないと思いますが、わたしのふたつの乳房の真ん中では小さな葡萄のような乳首が生ぬるい外気に触れてつんと上向きにとんがっていました。男は一瞬驚いたようでしたが、にやっと照れくさそうに笑うと「やあ」と頭を下げました。わたしもおもわず「はぁ」と頭をさげました。
夜になると真面目そうに見えたその男は自分の部屋のテラスから「こんばんわ」とワインを一本持ちながら、わたしを呼んだので、わたしは「こんばんわ」と言いながら男をわたしの部屋に招待してあげました。
突然のことでしたが、わたしは男のために、買い置きの、割と高級なオイルサーディンの缶詰を開けて、オニオンスライスとパセリを添えて簡単なおつまみを作ってあげました。トマトは薄切りにして、モッツアレラチーズと交互に並べてドレッシングを振りかけてみました。青ジソの千切りの香りを散らすのも忘れませんでした。
このビルの屋上には祖父が作っていた小さな菜園があって、わたしは夏はそこで、きゅうりやナスやトマトを作っているのです。青ジソや、パセリは虫に食べられ易くて、手入れが大変なのですが、洋風料理にも和風料理にも欠かせないハーブのひとつです。だから、わたしは、面倒がらずに一日一回は屋上に上がって水をあげ、ときどき肥料を撒いてやるのです。
けれども男は、そんなわたしの丹精こめて育てた野菜を添えた手作りの料理を、わたしが期待したほどには喜んではくれませんでした。むしろ裸で料理を作って歩き回るわたしのことばかりを喜んでいたみたいでした。だから、ワインの瓶が空にならないうちに、もう男も素っ裸になってしまい、わたしと男は抱き合っていました。そしてあっというまに男は抱き合ったままわたしの中にすっぽりと入ってしまったのです。
次の朝からは窓越しにわたしは男に「おはよう」といい、男もわたしに「おはよう」をいう間柄になりました。男の「おはよう」という言葉が聞きたくて、わたしはとても早起きになれました。何よりも嬉しかったのはそれから幾日もしないうちに、男がわたしのベッドの中で「おはよう」をいうようになったことです。
*****
ところが、残念なことにそれから幾日もしないうちに、わたしはまたひとりで夜を過ごすようになりました。男はわたしに「おはよう」を言うためにテラスにも出て来てはくれませんでした。わたしが「おはよう」と呼びかけても、テラスのカーテンは閉められたままでした。
――― どうしてかしら・・?
男に料理をこさえてあげたり、男と抱き合うことがなくなった分、暇になったので、わたしはちょっと考えてみました。
そう、わたしが、「ずっと居ていいのよ」と、言ってあげたときでした。男は少し嫌そうな顔をしました。だから「いいえ、来たいときだけでいいわ」と、わたしが言いなおすと男はほっとしたようでした。
そういえば、その頃からわたしが裸で歩き回っていてもそんなに嬉しそうではなくなりました。むしろ、私の作る料理を「うまい、うまい」と嬉しそうにたべてくれるようになりました。
それで「明日はなにが食べたいの?」とわたしが聞くと、男はまた嫌そうな顔をしました。
なので「じゃいいわ、食べたい時だけ来て」と言いなおすと、やっぱりほっとしたようでした。
いつだったか、とってもいい太刀魚が手に入ったので、おもいきって「食べに来て」と窓越しに誘ってみたことがありました。すると、男はテラスの向こうで「ごめん、今日は腹の具合が悪い」と言うので、「じゃ、お粥を作ってあげる」と、わたしが言うと、また嫌そうな顔になりました。「わかったわ、お腹が治ったら、またね」と言ってあげたのですが、男の眼鏡の奥の彫りの深い顔はますます困った顔になっていました。その翌日からです。男のテラスのカーテンが閉まったままになったのは・・・
あの日以来ずっとわたしは男を待ちました。待つことはとても退屈な事でした。
いつ来るか分からない相手を待つ、というのはちょっと損をしていることに思えてきました。なんだか勿体ないことをしているような。だから「もう待つのはやめたいな」そう思っていたときでした。
男がわたしの窓を叩きました。あんまり暑かったのでクーラーを「強」にして部屋をガンガン冷やしていたところでした。わたしは嬉しくて飛び上がりながら窓を開け男を招き入れました。
部屋に入るとすぐに、男はわたしの窓をぴしゃんと閉めてしまいました。そして花模様のカーテンでその窓をさっと覆ってしまいましたので、「ああ、そんなに焦らないで・・」と、わたしは半分嬉しいやら、ちょっと恥ずかしいやらで、裸のままビールを出しにキッチンの冷蔵庫の扉を開けにいきました。
冷えた部屋で、冷えたビールを冷えたグラスに注いであげたのに、男はちっとも嬉しそうではありません。
「さきにわたしを飲みたいの?」と、聞いても黙っています。ときどき、窓のカーテンの透き間から自分の部屋の様子をこっそりと覗き込む男の様子に、わたしも「どうしたのかな?」とは思いました。ただ、そんな男の後姿を見つめているうちに、なんだかもう無性に「帰したくない」という思いがこみあげてきたのです。わたしは後ろから男に抱きつきました。そして男のズボンのベルトをこっそり抜くと、抜き取ったベルトを男の首に巻きつけました。静かに、すばやくでしたので男が気づいて振り向いた時にはもう、グレーの布ベルトの先がバックルに通されてしまい、男の首はそのバックルでしっかりと固定されてしまったのです。
「なんのつもり?」男は眼鏡の奥で苦笑いをしながらわたしを見ています。
――― 似合うわ
ほんとにわたしはそう思いました。
男の首に巻きつけられたベルトはちょうど犬の首輪のようでした。
だから「今日からわたしの犬よ」と、わたしはにっこりと微笑んで言ってあげました。
「遊んでる場合じゃないんだ」と、男はちょっと怒った顔で言いました。
「遊んでなんかいないわ」と、わたしは男に言い返しました。
――― そう、わたしは遊びなんかじゃなかったわ・・・
また、むしゃくしゃしたものがわたしの胸の奥にこみあげてきたので、わたしはそのベルトの端をベッドの足に結んでしまいました。
「困ったコだな・・・」と、吐き捨てるように言うと、男は空いている両手でそれを解こうとしたので、わたしは手元にあったビール瓶で思いっきり男の頭を殴りつけました。3回ほど振り下ろしたら、男はそのまま気を失ってしまったようでした。わたしは男が意識を取り戻さないうちにと、男の腕をわたしの浴衣の伊達巻でぐるぐると後ろ手に縛ってしまいました。そして、念のためにその紐の先もベッドにきつく縛り付けておきました。
ちょうどその時でした。ドーンとあたりに響く大きな爆音がしました。
――― そうだったわ。今夜は近くの神社の夏祭りなの。
――― ほら、花火もなり始めたでしょう。
――― じゃわたし、ちょっと行ってくるわね。
藍染に藤紫の蝶の模様の浴衣は生前、祖父が買ってくれたものです。
素肌に浴衣を羽織り、ヒンヤリとした袖にそっと腕を通すとなんだかとても女らしい気分になりました。腰紐を結び、おはしょりを整えて、ホントは伊達巻をすればいいのだけれどそれは、男の腕に巻かれたままなので、仕方なくそのまま臙脂の半幅帯をクルクルと巻きつけると程よく締め上げて、文庫結びに形を作りました。鏡に映ったわたしの粋な浴衣姿は自分でも「いけてる」と感じましたので、そうだ、あとで男にも見せてあげようと・・・とわたしは思いました。そして、赤い鼻緒の黒塗りの駒下駄を子供みたいにカラカラ鳴らして、わたしは小さい子どもたちの後を追っかけながらはしゃいでお祭りに出かけたのです。
夜も更けて、打ち上げ花火も終わってしまったので、つまらないからと、赤に黄色の縞模様のヨーヨーを手にブラブラさせて部屋に戻ってみますと、男はまだベッドの脇で寝転がったままでした。
「ごめんね、待たせちゃった?」
そう言ってから、男の顔を覗き込んだわたしは、男の血の気のない顔を見てびっくりしました。男の首の周りが紫色に変色しています。男のかけていた眼鏡も酷く歪んでいました。
気づいた男が逃げようともがいたらしくて、穴のないベルトの真鋳製のバックルが返って締まっておとこの首に食い込んでしまったようです。
「苦しかった?」
わたしは悪い事をしたと思って、急いでベルトを緩めてあげましたが、もう男の息は戻りませんでした。
「ほんとに帰れなくなっちゃたわね」
――― だから、言ったでしょ、ずっと居ていいんだって・・・
*****
男が急に居なくなったのに、隣のマンションの男の部屋には三日もしないうちに別の男が入ってきました。
――― 変なの・・・
そんなときは、八百屋の前の井戸端会議を覗きに行くのが一番。
<取立てやがしつこくてさ
<上がり込んで家捜ししてたんだって?
<やだね、サラ金も怖いよね
<でも借りる方が悪いのよ
<結構派手な暮らしぶりで・・・
<女にもまめだったらしいよ
<そんで夜逃げしちゃったって?
<そう、身ひとつでト・ン・ズ・ラ
<じゃ、家賃もぱあ?
<いいんだって、ほら、敷金礼金いただいてるじゃない
<まだ新築だしね、
<あそこ結構人気あるらしいから
<善さんのおかみさんもホクホクだ
<そお・・・もう次が入ったのかい?
わたしは店先でスイカを選びながら、おもわず「ふうん」と独り言のように
相槌を打ってしまったのでした。
*****
次に隣の部屋に入ってきた男は前の男よりも歳の若い男でした。もしかしたらわたしよりも年下なのかもしれません。そして、前の男よりももっと美しい男でした。そして、とても優しそうな目をしていました。この男ならきっと、前の男のことを忘れさせてくれそうだなとわたしは勝手に思ってしまいました。ですから、いつも裸のまま窓を開け放して男のテラスを眺めていました。なのに昼間もカーテンは締め切ったままで、夜になっても開いた事はありませんでした。それが、そろそろお盆休みも終わる晩でした。男とわたしの目が合った瞬間がようやく来たのです。
最初、男はとても意外な顔でわたしを見ました。でも黙ったまま、にこっと笑う男の八重歯がなんともいえないくらい可愛くて、わたしはすぐに「入って」と、窓を大きく開けました。
男はちょっと躊躇っていましたが、わたしの胸のふくらみとその上のぷるんとしたさくらんぼが気にいったらしく、わたしに抱きつくように月明かりの下をテラスを越えて入ってきました。
もうわたしは裸で料理を作るのはやめようと思いましたので、ノースリーブのワンピースを頭の上からすっぽり被りながら男に聞きました。
「遊びじゃないわよね?」
これからは、まず最初に男にはそう聞くことにしたのです。
「もちろん」という言葉を期待していたのですが
「遊びじゃいや?」と、答えの代わりに男はそう聞きかえしてきました。そのハスキーな声にわたしはすっかり参ってしまい、着かけていたワンピースをすぐに脱いでしまいました。そうしてまた、裸になると、「いいわ、遊びでも・・」即座にわたしはそう頷いてしまったのでした。
そういえば、祖父が月末になるといっていました。
「人間、働くばっかじゃおもしろくねえ。たまにゃ、遊ばんとな」
そうして、祖父は翌日にはきまって隣町の競輪場にでかけていきました。真面目な祖父の、たったひとつの気晴らしだったのでしょう。
わたしと美しい男はベッドの中で舐めあいながら、抱き合いながら、わたしの中に美しい男が入ったり出たりを繰り返していたのです。男はとても若いのに、いろんな「遊び」を知っていました。ふとわたしは、父とはほとんど遊んでもらったことがないのを思い出してしまい、慌ててそれを消すように「ゲーム」の続きを楽しむ事にしました。
「体感ゲームね!」と、はしゃぎながらわたしが興奮していたのも束の間でした。実にあっけなく出たり入ったりのそのゲームは終わってしまったのです。
なんだかとても虚しい終わり方でしたが、遊びとかゲームというのはそんなものらしいです。
それでも、わたしの心の中では「遊んだのか・・・遊ばれたのか・・・」そんな思いが何日か交錯していました。わたしの身体の中に「思い出」がまたひとつ増えたと思えばいいでしょと、自分に言い聞かしていたら、ちょうどそこに、ガラっと窓を開けて美しいゲーム相手が慌てた様子で入ってきました。
「どうしたの?またゲーム再開?」
嬉しそうにわたしが聞いても、男はただ青い顔でおろおろとしています。
すると、突然わたしのその窓から見知らぬ女が顔を見せました。女の顔は男を見つけるとからだごと窓から飛び込んできました。カーテンがバシバシッとレールから引き落とされる音がしました。手にはナイフを持っています。そして、女は無言で蹲(うずくま)っている男に近づくと、いきなり男の胸にそのナイフを突き刺したのです。
――― いい気味・・・
なぜかわかりませんが、わたしの心は勝手にそう思っちゃいました。
女はしばらく刺された男を見つめていましたが、その顔には涙が一筋流れていました。なんか、素敵な映画のワンシーンを見ているようでした。そして、私のことなどお構いなしに女はひと言の台詞も残さず、また窓を乗り越えて隣の男の部屋に戻ってしまいました。
男の胸には緑の柄のナイフが突き刺さったまま。
「いたい?」
男はようやくなにが起こったか気づいたようでした。わたしがそう聞いた途端、男はあのわたしの好きなハスキーな声で呻きだしました。わたしは急に男が可哀想になってそのナイフの柄を一気に抜いてあげました。すると、男の胸からはすごい勢いで噴水のように真っ赤な鮮血が吹き出てきたのです。
――― わあ、きれい!
その血は洪水のようにあたり一面を覆い始めました。
そして、直ぐに男の息は止まりました。男の顔が真っ白になっていくのを眺めながら、わたしは美しい男は死に顔まで美しいんだと思っていました。その時でした。ポッポー、ポッポーと壁の鳩時計が午前零時を指差しながら、今日の終わりを鳴き始めました。
――― ほんとのゲームオーバーになっちゃったわね。
そういいながらわたしもしばらく男の死に顔を見つめながら泣いていました。
*****
ところが、今度も一週間もしないうちに、隣の部屋は空き部屋にならずにすぐにまた新しい男が入ってきました。
なすも、きゅうりもトマトもあったので、わたしは玉ねぎとジャガイモとにんじんを買いに八百屋に行くことにしました。少し風は秋めいてきたといっても、まだまだ残暑の陽ざしがガンガン照りつけています。こんなに暑くても井戸端会議はにぎわっています。葦簾(よしず)で覆った店先で八百屋のオジサンがくれた、ちょっと酸っぱいスモモを齧りながら、わたしはおばさんたちの会話に耳を傾けました。時々、「魚屋の・・・ちゃん」という言葉も面白おかしく飛び交っていましたが、わたしはどうでもいいことには耳を塞いで、知りたい事だけに、耳を集中させていました。
<ああいうのをイイ男っていうんだろうね <ホストだったんだって
<道理で・・・
――― うんうん
<おたくもさ、ああいうのと遊んでみたかったんじゃないの?
――― ちょっと、どき!
<でさ、貢ぎこんじまった女がいてさ・・・
<とにかくいろんな女に追っかけまわされてたらしいよ
<それで、あのマンションに?
<隠れてたみたいなもんさ
<客にストーカーされるようになっちゃあホストもおしまいだねえ
<で、また夜逃げかい?
<捜索願いも出てないらしいし・・・
わたしがここに住むようになった時、まだわたしは7歳でしたが、祖父に言われたのです。あれはちょうど暮れも押し迫った、師走にしては暖かな昼下がりでした。祖父は店先に飾ってあった正月飾用の荒巻鮭を、ポンとまな板に乗せると、出刃の先で鱗をしごき始めました。
「魚屋の孫なんだからな、魚の一匹も捌(さば)けないとな」
そうして祖父が魚を下ろすところをわたしははじめて見せてもらいました。子供心に丸い目で空(くう)を睨みながら、されるがままに下ろされていく青い鮭のピンク色の肌がとても鮮やかだったのを覚えています。
――― おじいちゃん、わたしは「食わせて」は貰えなかったよ。
――― それに「たまの遊び」もわたしには気晴らしにはならなかったよ。
――― だけどね、おじいちゃん。おじいちゃんに「魚のさばき方」教えてもらっといてほんとに良かったよ・・・
一階の店に置いたままの冷蔵庫は業務用なので、“細かく刻めば”まだまだいくらでも入りそうですが、別にそのスペースは空けておいても構わないのです。もしいっぱいになったら屋上の野菜たちの肥料にもなるし…
それでも念のためにと、わたしが出刃包丁を研いでいますと、ふと埃を被ったショーケースの向こうから、誰かが覗き込んでいるような気がしてわたしは目を凝らしました。
ハムスターのつぶらな瞳がありました。
あのこ、やっぱりちゃんと・・生きていたんです。
――― ねえロンちゃん、あんたももう退屈じゃなくなったでしょ?
*****
さっきわたしと目が合ってしまった男は、そんなに若くない男でした。顔もハンサムではないし、ちょっと見はなんだか無愛想な感じ。
でもそう言う男が案外優しかったりするのかもしれません。そう、祖父のようにね・・
その証拠に。、ほら、大きなスイカを手に男はテラスでわたしに声を投げてきましたもの。
了
この作品への感想は、九鬼ゑ女氏まで、メールでお願いします。
戻る