お・か・え・り!
お・か・え・り!
これはシアワセを欲しがった二匹のアリさんの再生のお話です。
九鬼ゑ女
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第一章 再生の日々
第二章 兆し
第三章 そして、海
第四章 二匹の蟻
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■アリさんはいそいでいました。
あんまりいそいでこっつんこ。
そうしてアリさんはだいじなことまで
ぜんぶわすれてしまったのでした。
第一章 再生の日々
「悲しいけど、ホントに何も思い出せないのよ…」
ため息混じりにきみはぼくの目を覗き込む。
きみのその視線をまっすぐ受け止めて、ぼくはうなずく。
そしてぼくは、あの日の交錯した場面をぼくの脳裏に巻き戻してみる。
それは一瞬の出来事だった。
まぶしい閃光がぼくの目の前で炸裂した。
ぼくは弾き飛ばされたきみを揺り起こす。
ぬるっとした血糊と砕け散りそうな心音がぼくの手にしがみつく。
その鼓動の音は生暖かいきみの体温を添えて生命の抗う様をぼくに伝える。
それでもみるまにきみは凍り始めた魚のように青白くなっていくから、
血だらけのきみを抱きしめながらぼくはただおろおろするしかなかった。
きみを宙に巻き上げアスファルトにたたきつけた突風のような魔物。
そいつは非情にも遠ざかる時間のようにぼくときみを路上に置き去りにしたまま振り返りもせずに消えていった。
刻一刻と秒針は前に進む。
ぼくの叫び声は真夜中の静寂を裂いた筈なのに、誰も気づかないというのか。
ぼくの不安にスポットライトを浴びせながら夜の闇だけがぼくらをじわじわ取り囲む。
その真っ暗な闇の中に放り出されたぼくらの前に、赤い点滅とサイレンの響きが止まったのは魔物が走り去ってから三十分以上も経ってからのことだった。
*
交通事故という突然は毎日多くの人命を奪っていく。
命が助かっただけでもめっけものさ…
あのときの救急隊員もそう言ってたよ。
そっくりそのままの言葉を何度きみに伝えただろう。
ふと気づけばいつのまにか病室には頼りなげな冬の夕日が淡い影を落とし始めている。
ぼくはベッドの上の陽菜(あきな)の髪を梳く。
そして彼女にお似合いの虹色のトンボ玉のついた髪留めでその長い髪を束ね直す。
それからぼくはバッグの中から手鏡を取り出し陽菜の前にそれを差し出す。
鎌倉彫の手鏡はぼくの手作りだ。
自慢じゃないがぼくの地道な修業の賜物なのだ。
ぼくは嬉しいよ、陽菜。
ぼくの愛を、そして愛しいきみを映し出す鏡がこうして再びきみの手の中にある。
その手鏡に映る自分の顔を覗きこみながら、陽菜は眼を伏せ自分の顔にそっと手をやる。
そしていきなり彼女は急に笑い出す。
笑いながらそのつぶらな瞳からは光るしずくをいっぱい溢れさせている。
「…陽菜」
「なんだか…なんだか可笑しくって、なのにとても切なくって」
…あたしはこうしてあなたとこの暖かい陽だまりの時を共有している。それがじきに思い出になってしまうとしてもこの今という時間はあたしにとってはもう忘れようがない今よね。
そうよ、今のあたしの記憶のページには確かに記された時間がちゃんと残っている。それはとても幸せな一頁で、あたしはほんとにシアワセもので。
…だから笑ってなきゃって。
なのに、ああ、こんな風な時があなたとあたしの間でどのくらい行き交ったのか、そう思うと、それをみんな忘れちゃったなんて。やっぱり悔しい…悔しいのよ。
ぼくはそんな陽菜をそっと抱き寄せその愛らしいくちびるにぼくのくちびるを重ねる。すっかり暮色に染まった二人の影が病室の壁にに秘めやかに揺れる。
陽菜は日に日に元気になっていく。
頭の怪我も、手足の骨折も、体中に散らばっていた青痣もだいぶ癒えてきた。
そう…記憶という一番肝心のパーツを覗いては。
*
三ヶ月まえのあの突然の事故。
「お気の毒なことに患者には記憶がありません」
主治医からそういわれたときのぼくの驚き。
消毒薬に包まれ何もかもが真っ白な病室で、天井を見つめて横たわっているのは、あちこちをいくつもの管に繋がれた可哀想な陽菜。
「陽菜…陽菜!」
ぼくは彼女を包むその真っ白な時間を引き裂き、その空虚な隙間に色を流しこむように何度も彼女の名を呼ぶ。
だけど、医師の言葉の証しのように、陽菜、きみはしらんふりで。
見知らぬ他人に出会ったようにぼくをいぶかしげに覗き込む。
そしてきみの眼はまるでぼくのからだを擦りぬけるみたいに虚ろで。
きみと同じ無表情な壁に囲まれた病室に、きみの名を繰り返すぼくの声だけがやけに大きくこだましていた。
実を言うとあの時、ぼくは本当はとても怖かったんだ。
確かにきみの記憶は失われたのかもしれない。
けれどぼくの存在までが消されたなんてぼくにはどうしても信じられなかった。
だから、その事実と面と向かうには勇気が必要だった。
こうみえても、ぼくは案外臆病者なんだ。
なのに…だ。
「あなたは…誰?」
本当にきみの記憶は完全に途切れていた。
あの時ぼくの目から流れ落ちた一筋の涙。
その切ないぼくの涙の糸を君も見たよね?
だけどぼくは気持ちを切り替えて、直ぐに自分に言い聞かせたんだ。
勿論きみにもね。
そう。今日からがぼくらのはじまりなんだと。
昨日までのふたりは遠いマボロシのままでもいいさと。
たとえぼくたちの過去が過去のまま消えうせたとしても、いまが大事なんだから。
ね、そうだろう?
もう過ぎ去ったものは追わないよ。
だってね、本当に危なかったんだよ。
もうちょっとできみはぼくの手の届かない遠いところにイッチャウ≠ニこだったんだモノ。
でもきみは戻ってきてくれた。
だから…おかえり!
おかえり、陽菜。
*
その日からぼくたちの再生の日々が始まって
ぼくは毎日仕事が終わると陽菜の病室で彼女とともに過ごすようになった。
それは愛というかけがえのない思い出作り。
再生のための記憶の繭玉をぼくは陽菜の前にころころと転がす。
糸を吐き出すのはぼくのくちびる。それを縒って紡ぐのはきみ。
…そして織られる布はぼくらの今日だよ、陽菜。
きみはね、早くにお父さんもお母さんも亡くしてね、おばあちゃんに育てられたんだ。
そのおばあちゃんが脳梗塞であっけなく死んじゃったときは辛そうだったな。
もう十年になるかな。春とは名ばかりの花冷えの日が幾日も続いてた。
そんなある朝だった、彼女が亡くなったのはね。
寂しい葬式だったけど、ぼくらはふたりで静かに彼女を天国に送ってあげたんだよ。おばあちゃんの大好きだった水仙の花束と一緒にね。
天に登っていくおばあちゃんのイノチは陽炎みたいにおぼろげに揺れて、何度もぼくらに「さようなら」って、手を振っているみたいで、ぼくらはいつまでもその空を見上げてたんだ。
「天涯孤独になっちゃった…」
そう泣きながら、きみはぼくの胸で泣いてた。
だから、大丈夫。ぼくがいるじゃないかって、ぼくは何度もきみを抱きしめた。
覚えてないよね?
言ってから、ごめん。とぼくは陽菜の手を握りながら謝る。
陽菜は唇を噛むようにぼくを見る。
いつもそうなんだ…つい。
ぼくは言っちゃいけない言葉で陽菜を悲しませてしまう。
「ううん。いいのよ」
陽菜はぼくの手をぎゅっと握り返す。
そのぼくの手に頬擦りしながら陽菜は目を細めてこう言う。
「そうね。たぶんそうだったのよね。 いいえ、きっとそうだった」
そうよ、そうだったわ…ありがとう、あなた。
こちらこそ、ありがとうだよ、陽菜…
何日もしないうちに健気にも陽菜はぼくの語るぼくらの過去をちゃんと心でなぞってくれるようになった。ぼくもシアワセモノさ。たとえきみの記憶は戻らずとも、揺るぐことのないすばらしいぼくらの愛のあかしの日々がここにある。
それを蘇らせて≠ュれたのはほかならぬきみだもの、陽菜。
もうじき春だね、退院したらおばあちゃんのお墓参りに行こうか。
ぼくの言葉に陽菜はにっこりと笑う。
そして彼女の眼差しは枕もとの一輪挿しに注がれる。
それは黄色い水仙。涙のような露を可憐な花びらにいっぱい含ませて、清んだ香りでぼくらを包み込む。
「ね? 出逢いは…あたしたちの」
ああ…ぼくもいまその話をしようと思ってたところさ。
それはね、クリスマスもまもない頃だった。
雪がちらつくとても寒い日でね。
ああいうのを運命の出会いっていうんだろうな。
出会った途端だった。
うん、ぼくらを繋ぐ見えない糸。
その縁(えにし)のような赤い糸がその瞬間に結ばれたんだもの。
なぜわかったかって?
だってぼくがきみに声をかけようとしたその前に、もう、きみは振り返ってぼくを見つめていたんだよ。
まるで、ぼくに呼ばれるのを待ってたみたいにさ。
とにかく寒かったからね、長いまつげごときみは体を震わせていた。
ぼくは直ぐに近くのカフェにきみを誘った。
銅製のドアベルがカランカランと耳もとで心地よく揺れて、珈琲のちょっと甘酸っぱい香りとサイフォンの湯気が漂う店内には、けだるいジャズが流れてて。
急に暖まった店内に入ったせいかきみの頬がぱあっとピンク色に染まった。
可愛かった。
なのにぼくの鼻からは鼻水がたれそうになってね。
ぼくは慌てて鼻の穴を押さえたまま店内を見渡した。
突き当りの一番奥の席が空いていた。
ぼくは冷え切ったきみの手をぎゅっと掴むと黄色いランプの炎が心細げに揺れる店の中を駆け出したんだ。
恥ずかしそうにうつむくきみの頬はさっきよりもっと赤くなってたよ。
えっ?どんな話をしたかって…
ははは…もう忘れちゃったよ。
だってきみと向かい合って座った途端、ぼくはもう胸がいっぱいになってしまってさ。
そうだ。
何だか喉ばかり渇いて何倍も水をお変わりしたことだけは覚えてる。
「…それから?」
それからぼくらはほとんど毎日のように会って。
おばあちゃんが亡くなってからはきみはぼくの部屋に住むようになって。
式はあげなかったけどぼくらはシアワセで…
そう。ふたりとも本当にシアワセだったんだよ、陽菜。
■アリさんはうみのゆめをみました。
わすれたことをおもいだせるかもしれないと
アリさんはすこしうれしくなりました。
第二章 兆し
数日前からだった。
陽菜に少し変化がおきた。
とても現実的な夢を見るようになったという。
ひょっとして記憶が戻る兆し≠ニいうヤツなのだろうか?
そう思うとぼくの心はざわざわと騒いだ。
そんな退院間近の休日の午後だった。
ぼくらは木漏れ日の降り注ぐ病院の裏庭のベンチでいつものようにゆったりと語らいの時間を過ごしていた。
その日も陽菜は前の晩に見た夢の話をぼくにしはじめた。
あのね…
あたしの目の前には果てしない海原が広がってるの。
あたしはひとりじゃなくってね、誰かと一緒。
ふたりでね、手を握りながら海を見ているの。
水平線がオレンジ色に染まる空と溶け合うようできれいだった。
海は穏やかで、波の音と潮の香りの中でアタシタチは時を忘れて…
見渡すとあたりはすっかり日が暮れていて
そしてあたしはその人の肩にもたれ…
でも、そこから先はぼやけてて。
ねえ…あたしたちよく海に行ったの?
心のざわめきがさっきより大きくなったみたいだ。
だからぼくは少し、そう。少しだけ焦った。
よりにもよって海の夢だなんて。
***
ぼくは海が嫌いだった。
昔。ぼくは溺れたコトがある。
正確に言うと溺れたんじゃない。溺れさせられたんだ。
こともあろうに、ぼくの父親にだ。
だけどね、父さんは悪くない。悪いのは母さん。たぶん。
だって母さんには男がいたんだもの。
でも、実際のところは母さんに男が出来るずっと前からふたりの仲は壊れていたんだ。
愛という色が褪めたっていうととてもキレイに聞こえるよね。
かつては男と女だったはずの父さんと母さん。
そのふたりの交じり合った夫婦の色がどんな風に色褪せていったのかぼくにはわからない。ぼくはまだほんの子どもだったからね。
たぶん母さんにはその夫婦色に塗り込められた暮らしは合わなかったんだろう。
だけどそこに一滴毒を垂らしたのは、母さんだった。
ほかの男の人の色に自分の褪せた日々を染めることをおぼえちゃったんだもの。
だからやっぱり、悪いのは母さんだ。
どっちにしろ、母さんは出て行った。ぼくと父さんを捨ててね。
ぼくは知ってたよ、父さんが毎晩泣いてたのをね。
そういえば、父さんは子どもの頃から自分の両親にいじめられていたという。そしてあげくの果て捨てられたんだそうだ。
捨て子とか虐待って言葉は世の中で一番嫌いな言葉だって、よく言ってたな。
母さんが居なくなってから父さんとぼくは肩を寄せ合うように暮らした。父さんがぼくを邪険にしたことは一度もなかった。むしろ母さんに捨てられたぼくを不憫だといって、父さんは泣いてくれたし、抱きしめてもくれた。…そう、今まで以上に可愛がってくれていた。
ただね、ぼくの中に母さんを見るって時々ぼやいてたな。
どちらかというとぼくは母さん似だったから。
夏の初めのある日のことだった。
「海に行きたいな」
そうせがむぼくに父さんは言った。
「海か…。そうだな、いいよ」
夏空を独り占めするはずの入道雲もまだ綿菓子みたいにちいさくって、なんだかお日様だってぎらぎらっていうほどの日じゃなかったけど、ぼくは嬉しくって飛び上がった。
「やったあ!」
「はしゃぐのは海に行ってから」
そう父さんにたしなめられるくらいにね。
ぼくは押入れの隅っこから海水パンツの仕舞ってある箱を引きずり出した。
その蓋を開けた途端だった。
ぼくの目に色鮮やかな花がいっぱい飛び込んできたんだ。
母さんの水着だった。
ぼくは父さんには内緒でソノ水着も一緒にぼくのビニールバッグに詰め込んだんだ。
シーズンにはちょっと間があったし、泳ぐにも少し肌寒かった。
だから海にはまだあんまり人もいなくて、海の家も閉まってた。
父さんは海水浴場から少し離れた磯に小さなパラソルを立てた。
「海だ!海だ!」
ぼくはわくわくしながら、波の押し寄せる岩場の端っこから海にそっと足を浸した。
「危ないから沖に出るんじゃないぞ」
心配そうな父さんの声が背中で聞こえてた。
はじめは磯の水溜りで蟹を追いかけたりして遊んでいた。
そのうち父さんはパラソルの下で気持ちよさそうに寝てしまった。
ぼくはバッグの中から母さんの花柄の水着を取り出して海水パンツの上から着てみたんだ。
母さんの水着は思ってたほど大きくはなかったよ。
ぼくは浅瀬を見つけて足からドボンと海に飛び込んだ。
そしたらね、なぜか直ぐにぼくのからだはふわっと海面に浮きあがった。見ると不思議なことにぼくのからだの周りで母さんの水着が踊り始めたんだ。波に揺れながら赤やピンクや紫の花が膨らんだり凋んだりを繰り返してた。
まるでそこだけスポットライトを浴びた花園みたいにね。
そのうちになんだか母さんがぼくを抱きしめながらダンスをしているみたいに思えてきた。
だからぼくも母さんに抱かれうっとりしてた。
するといきなりだった。
誰かがぼくを後ろから抱え込んで逆さに海の中に突き落としたんだ。
鼻にも眼にも口にもそして耳にも一気に海水が流れ込んできた。
たちまちぼくの全身は海の中に浸されたまま塩辛い水で覆われた。
もちろん苦しくってぼくはもがいた。
苦し紛れにぼくは海面を見上げた。
そのぼくの眼に映ったのは、それは、父さんの引き攣った顔だった。
父さんは海面の上で、今まで見せたことのない恐ろしい形相でぼくを睨んでいた。
それ以来、ぼくは海が嫌いになったんだ。
***
「そうか…でもそれはぼくじゃないよ。残念だけどさ。
ぼくと知り合う前のきみの恋人じゃないのかい?」
ぼくはさりげなく陽菜から目をそらせ、皮肉交じりにそう答えると、わざと拗ねてみせた。
やんなっちゃうな…
そんなこと言うつもりなんてなかったのにさ。きみが海の夢なんかみるからだ。
けれどぼくは心の中ですぐに決めていた。
彼女が退院するときにはレンタカーを借りよう。そして陽菜を海に連れていってやろうと。
そうさ、愛しい妻のためじゃないか。
うん…愛があればなんだって越えられるはずだよな。
たぶん…今なら、ぼくは平気さ。
だって、ぼくはもうあの日のぼくじゃない。ちゃんとしたオトナの男だものね。
■うみであそんでいるうちに、あんまりうれしか
ったからでしょうか。アリさんはわすれていたことを
ぜんぶおもいだしたのです。
第三章 そして、海
真由美は自分のコトを尻軽女といった夫が許せなかった。
自分は何よ、女房さえも満足させられないダメ亭主じゃないの。
出逢った頃は確かに夫に惹かれた。
彼女はどちらかというと世間知らずでうぶな女だった。
だから夫がオトナに思えた。頼りがいのある男だと。
何度も会ううちに結婚という形は当然の成り行きのように思えた。
早まったと…後悔しはじめたのは一緒に暮らし始めて直ぐのことだったかもしれない。
でも。
「夫婦なんてそんなもんだろ」
あいつは真由美の水着の肩紐を解きながらそう言った。
あいつ。そう、真由美のコイビト。
あいつと出会ったのは湘南のビーチ。
出会ったときからあいつはかっこよかった。
すれ違いざまに真由美のバッグがあいつが手にしていた飲みかけの缶ビールに当たった。
缶ごと飛ばされたビールはあっというまに熱い砂地に吸い込まれた。
「ごめんなさい」と謝る真由美のほっぺたに、あいつは手品師みたいにどこからか出したのか、新しい冷え冷えの缶ビールをぺたりと押し付けた。
ニッと笑ったあいつの真っ白な歯に真由美はいっぺんにマイッテタ。
何よりあいつの一番いいトコは真由美を縛らないトコ。
でいて、ちゃんと真由美の喜ぶポイントは押さえてる。
夫と違ってちゃんと女として真由美を愛してくれた。
女の愛し方もろくに知らないくせにシット深さだけは人一倍の夫。
そのねちっこさにはいい加減うんざりしていた。
もう堪えられない。
とうとう真由美は家を出る決心をした。
ある晩のこと。
夫が寝入ったのを確かめると腕時計に目をやった。
そろそろあいつとの待ち合わせの時間だった。
夫との暮らしに色褪せてしまったモノタチには未練はなかった。
真由美はお気に入りのバッグだけを抱えるとそっと玄関のドアを開けた。
眠っていたはずの夫の眼が直ぐ後ろにあることも知らずに…
***
ぼくは淡いピンクのカトレアを抱えきれないほど買ってきた。
退院祝いとして。
陽菜にはカトレアがとてもよく似合いそうだったからね。
そして約束どおり、海を見たがっていた陽菜のためにレンタカーを借り、ぼくらは海岸線を南に走った。
車内はカトレアの香りでいっぱいになった。
その甘い香りに咽(むせ)そうになったぼくは思わず窓をいっぱいに開けた。
そういえば。
カトレアは…たしか母さんも好きだった花だ。
海が近づく。心がざわつき出す。
ダイジョウブ。ダイジョウブ。
ぼくはその言葉を繰り返す。
「えっ、何か言った?」
陽菜はぼくの心のざわめきも知らず、無邪気に車内を通り抜けていく風に髪をなびかせて微笑んでいる。
…ダイジョウブ。
ぼくはもう一度その言葉を口の中で呟いてみる。
そう、怖くなんかないさ。
*
季節はすっかり春だったが、海はまだ寒々しくて吹き荒れる潮風が頬に痛かった。
岸壁の向こうの沖合いには波さえあればどんな天候でもお構いなしのサーファーたちが数人。
波待ちをしているのか、ボードにまたがって沖を見ている。
まるで波間に浮かぶ喪服を着せられた鴎のよう。
季節外れのこの海岸には人影もみえない。あるのは延々と続く灰色の砂浜。
それでも海は雄大で眩しく光り輝いていた。
陽菜はぼくの手を握り締めながら満足そうにつぶやいた。
「ああ、海、海だわ。夢で見た通りの!」
はるか遠くの空には流れるような筋雲。
太陽の光を吸い込んだ群青の海原がぼくらの視界を埋め尽くす。
陽菜の華奢なカラダが横暴な潮風に連れて行かれそうになる。
ぼくは長い髪ごと陽菜をぼくの腕に包み込む。
そのぼくの腕の中からするりと抜け出すと陽菜は波打ち際に向かって駆け出した。
笑いながら逃げる陽菜。
追いかけるぼく。
寄せては返す波に足あとを攫われながらぼくらはひとときをそのゲームにじゃれ合う。
ふと見ると浜辺には朽ちかけた小舟が一艘。
それを指差しながらひとこと、陽菜がつぶやく。
「乗ってみたいな」
誰も見ていないのをいいことにぼくは勝手に小舟を海の中に押し出した。波は待っていたとばかりにその小舟を自分の手のひらにスルリと受け止めた。
ぼくは陽菜を抱きかかえると彼女と一緒にその小舟に乗り込んだ。
そしてぼくは櫓を握ると沖へと小舟を漕ぎ出した。
時々不意打ちのように高い横波が小舟を大きく揺らしにきた。
小舟はたちまち水面で玩ばれる一枚の葉っぱになる。
ぼくらはまるでその葉にしがみつく二匹の蟻だ。
「ちょっと怖いわ」
ああ…ぼくも。
ダイジョウブ。ダイジョウブ・・・・・・・
ずっと呪文のようにそう唱えていたぼくだが、やっぱり海は好きになれそうもない。
砂浜に戻ろうとぼくは小舟を旋回させた。
その拍子に陽菜のからだがバランスを崩して反り返った。
荒波に引きずり込まれるように陽菜はあっという間に海の中に落ちた。
「陽菜!」
ぼくは彼女の名を呼びながら海を覗き込む。
陽菜のカラダがぷかりと浮き上がる。
ぼくが買って来た今日の陽菜の洋服は花柄のワンピース。
そのワンピースが波のリズムに合わせて踊り出している。
そう…海面に浮かぶ彼女の姿はまるで輪舞する花のよう。
途端、じわり。ぼくの目に映り始めたのはあの日の、あの場面。
…あの日、あの女≠ェ着ていたのはカトレアの水着だ。
その水着の花がぼくの前に咲き乱れている。実に豪華絢爛に。
同時にぼくにまたいつかのあの傷(いた)みの波が押し寄せる。
それは愛するものに去られたぼくの行き場のないカナシミの波動。
ぼくの意識は瞬く間にあの日≠ノ連れ戻されそうになる。
ねえ。ぼくを引き戻すのは誰だい?
…せっかく忘れようとしていたはずなのに。
あれほど恐れていたぼくの不安が的中してしまったようだ。
とうとう海はぼく≠目覚めさせてしまったんだね。
するとぼくの中の声が秘めやかに囁く。
『おまえは息子を死なせたんだろう?』
息子?
『そうだ・・・お前のひとり息子の洋さ』
洋?
『忘れたのか?お前は洋の父親じゃないか!』
ぼくが洋の父親?…父親。
ぼくは不意に眩暈に襲われる。
ぼくを取り囲みながら、その眩暈はぼくの記憶に揺さぶりをかける。
ああ…そうだった。思い出したよ。
洋。洋。可哀想な洋。
ぼくの手の下で懸命に足掻くぼくの息子、洋の顔が目の前に浮かぶ。
洋の体は鼻から、口から放出される夥しい水泡に包まれている。
『で、それはいったい誰のせいだったんだい?』
声は執拗にぼくに問いかける。
その間にも眩暈の渦はとぐろを巻きながら、今度はぼくを飲み込もうとするかのようにぼくを深みに手招く。
ぼくは必死に抗う。
すると今までぼくの脳裏に張り付いていた薄いベールがぱらりと剥がれ落ちる。
誰のせいかって?
ようやくぼくにもその渦の真ん中で足掻くものの正体が見えてきた。
…それはあいつだ。
ぼくにあんな恐ろしいコトをさせたのは、そう。
それは全てこの女≠フせいなのだ。
*
ぼくはあ・の・と・き≠フようにあいつ≠フ頭を押さえ込んだ。
眼を白黒させて鼻から、口から泡を出すおまえ。
瞬く間に無数の泡がそいつの顔を埋め尽くす。
ぼくの手は怯むことなくそいつの体を頭ごとを海中へと押しやる。
「おまえなんか!死ね」
湧きあがるアブクにまみれながら、そいつは何度も抵抗を繰り返す。
そんなぼくに一瞬海中の女の驚愕の瞳が絡む。
途端、ぼくの眼に映るのはあいつのそれ≠ナはなくなる。
それは・・・そう、洋の眼だった。
哀願するようにぼくを見るのはまさしくあの日の洋の眼。
洋…?
ぼくは思わずはっとして自分の手を引っ込めた。
「助けて!」
けれどそう叫びながら海面に顔を上げたのは…洋ではなく。それはぼくの陽菜。
彼女の怯えた眼差しが波間を泳ぐ。
苦し紛れか何かをつぶやきながら陽菜の手は波間をまさぐる。
ようやく舟のへりにしがみつくと陽菜は口から濁った塩水を噴水のように吐き出した。
そして、その落ち着きのない視線をぼくに向け途切れ途切れにこう聞く。
ねえ・・・・
あなたは・・・いったい・・・誰なの?
■アリさんはおくさんをとてもあいしていました。
あんまりあいしていたアリさんはこっつんこした
アリさんを、いなくなってしまったおくさんのか
わりにしてしまったのです。
第四章 二匹の蟻
ぼくの名は田所潤。
ぼくには愛する妻がいた。
ぼくらは本当に心から愛し合っていた。
ところが一緒に暮らすようになってからは妻はなぜかぼくに逆らってばかり。
ぼくが好きだった長い髪をショートカットにしてきたときはぼくは唖然とした。
せっかくぼくが買ってやった高価なトンボ玉の髪飾りだってぼくに投げつけて。
出逢った頃はそんなコトが出来る女じゃなかったのに。
そうしてある晩のこと、妻は男と手を取り何処かに逃げて行った。
息子の洋をぼくのもとに残したままで。
洋の顔を見るとぼくは正直辛かった。
だって洋はどこもかもが妻に生き写しだったからね。
ぼくは実にナサケナイ男さ。逃げられたくせに妻のことが忘れられなくってうじうじと彼女の思い出に浸ってばかりいた。
あの日。夏にはまだ早かったが、なんだか蒸し暑くって。
突然、洋が海に行きたいと言った。
余り気乗りはしなかったが、可愛い息子のためさ。
ぼくは彼を連れて海に出かけた。
洋も大喜びさ。
潮の香りに包まれて広い海原を眺めながらぼくは妻とのシアワセだった日々に心を馳せた。
ところが、洋のヤツ。
ぼくの目を盗んで妻の置いていった水着を着て嬉しそうに泳いでいたんだ。
それはぼくにとっては酷く残酷なシーンだった。
そう…それはまさしくぼくが見てしまったあの光景≠サのものだったからね。
幼い頃に両親を亡くした妻は祖母のもとで大事に育てられた。
そこは海辺の小さな漁村だったという。
だからかも知れないな、妻はよく言ってたよ。
海に来ると気持ちが和むってさ。
ぼくを裏切って彼女が付き合い始めたのも海の男だった。
ほら、向こうの浜で波と戯れている奴らがいるだろう。
お相手はサーファーだった。
いつだったかぼくはこっそりと彼女のあとをつけたことがあった。
そして岩陰から見せ付けられたんだ。その残酷な一部始終の光景をね。
妻は海の中で男にしなだれかかり、ぼくにも見せたことのないような媚びた顔で男のいやらしいキスを何度も欲しがっていた。
そのぼくの妻があのとき≠フ水着でまたぼくの前でいちゃついている。
そう思ったぼくは洋を抱き上げるとまっさかさまに海に突き落とした。
そして浮き上がろうともがく洋のアタマを押さえ込んだ。
そうさ、さっききみにしたみたいにね。
洋は直ぐにぼくの手の下でぐったりとしちゃって…
慌ててぼくは洋の体を引き上げてそっと岩場に寝かせ揺さぶってみた。
人工呼吸もシツコクやったよ。
だけど吊り上げられた烏賊(いか)みたいになったまま洋の息はもう戻らなかった。
イノチなんてたわいもないものだね…
だけど、安心していいからね。
ぼくはもうあんなアヤマチは二度としないつもり…だ。
そう、アレはね、ただの、「はずみ」だったんだ。
決して殺人なんかじゃなかったんだ。
けれど、人ひとりのイノチを奪ったことには違いなかったからぼくは刑務所に容れられた。それでもぼくの罪はそんなに重くはなかった。
難しい言葉で言うと、ぼくは「心神喪失状態」だったんだそうだ。
それにぼくはとても真面目な模範囚だったし、だから、たった二年で、ぼくはこうして自由の身さ。
おや、震えてるね。
そうだな、まだ海は冷たいしな。
でも、もうちょっとだからさ。
いい、ぼくの話、そこで聞いててくれる?
そう、ふふ、正真正銘のきみとの出逢い≠フ話をするからね。
でね、ぼくは子どもの頃からとても手先が器用だったんだ。
所内でもみんなに褒められたもんさ。
ほら、きみの愛用の手鏡…見事な牡丹の花が彫られてただろう?
所長のお墨付きの紹介状のおかげで、ぼくは由緒ある民芸家具屋の職人に採用された。
そして出所してきたぼくは仕事場の近くに部屋を借りた。
それがこともあろうにきみの住んでいたあの町だったとは。
あの晩は残業で帰りが深夜になってしまってね。
疲れていたぼくは早く家に帰って休みたかった。暗い夜道をぼくは急いでいた。
すると一軒のアパートから飛び出してきた女がいて、そいつがぼくと鉢合わせさ。
女の手にはなぜか血の付いたナイフが光っていた。
ぼくにそれを見られた女は一瞬愕然としながらも慌てて道路に飛び出した。
そこに運悪く信号無視で突っ切ってきたバイクが…
なんだっけ…ほら、『おつかいありさん』だったかな、童謡にもあるだろ?
「あっちいってちょんちょん、こっちきてちょん」
まさにそれ。
はじめはぼくと、そして次にバイクとこっつんこ≠チてわけさ。
あの晩、卑怯にもきみをはねたバイクはあっという間に逃げてしまった。
路面に打ち付けられたきみの体はまるでショートしたロボットのようだった。
ぴくぴくと不連続な痙攣を繰り返しては宙に手を遊ばせていた。
ぼくは道端に投げ出されたナイフを拾い上げるときみのバックごとぼくのデイバッグの中にすばやく隠した。
救急車を待つ間にぼくはこっそりきみのバッグから身元を証明するものを取り出した。
無論、きみのケータイもね。
しばらくして駆けつけた救急隊員にぼくはなんていったと思う?
即座にぼくはこういったのさ。
「妻です」とね。
それがきみとぼくのホントの出会いさ。
そうそう、きみが持っていた血糊のべっとりついていたナイフ。
その理由も、もう…思い出したかい?
つい最近の話さ。テレビニュースではある殺人事件を報道していたんだけど、きみは入院中だったから見てなかったのかな?
三ヶ月も家賃を溜めてるからって、アパートの大家が文句を言いに行ってようやく死体が発見されたらしいぜ。
被害者の男の顔写真が画面に大きく映し出されていたよ。
…憐れなもんだ。
あの晩きみが刺した、きみの内縁の夫は出血多量で死んじゃったんだね。
ふふふ。ぼくはとっくにあの晩、ソレを確かめて≠ヘいたけどね。
ねえ、真由美…さん?聞こえてる?
そうそう、きみと待ち合わせていた男。
きみが湘南の海でナンパされたっていう男。
残念だけどあいつは怖気づいてとっくにどこかに逃げちまったらしいな。
あとでメールを読んでみるといい。
それはそうと、きみもぼくとおんなじで捜索願いも出るはずのない孤独な女なんだってね。
週刊誌ってさ…そんなことまで根掘り葉掘り記事にしちまうんだね。
ぼくらはまさに宿命という路上で出遭った二匹の蟻≠セ。
そう思わないかい?
だからね、真由美…いいや、陽菜。
きみはもうぼくと一緒にしか生きられないんだ。
そうさ。きみはもうぼくの妻の田所陽菜なんだものね。
おや?
まだぼくのオハナシがよく飲み込めてないみたいだね。
きみは意識を失って何時間も集中治療室にいたんだ。
きみが自分の運命と戦っているその時間、ぼくは何をしていたと思う?勿論、きみの命が助かるコトを祈ってたさ。
でも、もうひとつ。
ぼくは『ぼくらの再生のドラマ』のあらすじを考えてたんだ。
だから。きみが記憶喪失だって知らされたときのぼくの「胸躍るような驚き!」がわかるかい?
はじめは信じられなかった。まさかってね。
でも、確かにきみのアタマの中は真っ白≠セった。
そして、あとは…きみの知っての通りさ。
まさにぼくはツイテイタというべきか。
白紙になっちまったきみのアタマに、ぼくの描いたシナリオは和紙に垂らした墨汁のようにすうっと吸い込まれていったもの。
そうそう。もうひとつツイテタことがある。
それはきみの血液型さ。
救急車の中で聞かれたときは正直焦ったよ。
うろ覚えの振りで曖昧に答えたんだけど、
それが、ホンモノのぼくの妻とおんなじだったなんて!
ん? もし途中で記憶が戻ったらどうしたかって。
バカだなあ。
いいかい。もう一度言うヨ。
きみは田所陽菜≠ウ。ぼくの愛する妻なんだよ。
けっして「殺人犯、北沢真由美」なんかじゃないんだ。
ほら!顔だって…ね。
ああ、ぼくらは実にツイテイル同士なのさ。
あの時、宙高く跳ね飛ばされたきみは顔面をアスファルトにまともに打ちつけたんだよ。血みどろのままぐちゃぐちゃに潰れたきみの顔を誰もまともに見る事もで出来なくって…
夫であるぼくは医者に頼んで出来る限りの修復を試みてもらった。
ね…ご覧。だからもうきみを北沢真由美≠セなんてわかる人間なんてこの世にひとりもいないはずだよ。
ふふ。そうさ、ぼくを除いてはね。
いいだろ?
さあ、お願いだから、そんなこわばった目でぼくを睨むなよな。
それとも、きみはぼくにまた同じアヤマチをさせるつもりかい?
まさか、きみはそんな愚かな$l間じゃないよね。
・・・・・ね。
だから、やっぱり「おかえり! 」だね。
そう、おかえり、ぼくの陽菜。
もうどこへも行かずにずっとぼくのそばにいてくれるよね。
了
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