愛しきそれは

著:青海 斗馬

 店内には優しくピアノのメロディが流れている。
 空調で微かに揺れる橙色の証明が心地よく視界を癒す。
 揉み消した筈の煙草の煙がゆっくりと立ち昇り、それをぼんやりと眺めてしまう。

 ゆったりと揺蕩う様な時間の流れの中で、僕は今一番の贅沢を噛みしめている。「今、一番の贅沢」と断言してしまうには惜しい程にこの空間全てが愛おしく感じる。そうやって身を委ねていく。
 その時、小さな悲鳴が聞こえた。
 続いて何かが落ちる音がした。どうやら斜め向かいの女性が水を零したようだった。
 茶色いテーブルから雫がぽたりと落ちていく。光に照らされたそれは美しく。メイド姿の店員が拭いてしまうのが勿体ない様にすら感じてしまう。勿論、そのままにしていればいずれ彼女の服も深い緑色をした絨毯もその色を変えてしまうだろう。それに、店員の女性だって叱られてしまうかもしれない。
 それでも僕は、この空間で起こるすべての出来事を愛さずにはいられなかった。
 あと数十分もすれば、僕は不幸のどん底にいるかもしれない。けれど、今はこの時が…
 そう思いつつ、ポケットの中を探る。手に当たった四角く硬いそれをそっと撫でた。するすると指を這わせれば刺激するようにその形が指に絡む。
 その時、机に置いたスマートフォンが小さく振動する。
 届いたメールを確認して胸が痛む様な気がした。予定よりも少し早く訪れた現実。素早くメールを返して煙草を一本手に取った。
 時間だ。
 白いワピースの裾を揺らしながら、黒髪の女性がこちらに歩みを進めてくる。連れ立った店員は私の方をにこりと見つめ、彼女に席を促す。

 「やあ、こんにちは」

 僕の運命を握る君


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