キス・ミー
1.出会い
秋の夕暮れの中、疲れた顔して足取り重く大きな国道に沿った、これまた大きな歩道を私は歩いていた。
この時間はいつも渋滞している。仕事帰りの人が多いのだろう。
ここら辺は別に都会でもないし、何も無い田舎というわけでは無いが、都会に行くにも田舎へ行くにもこの国道は必要なものだった。
私は、色々な車や運転手を観察して歩くのが好きだった。
だけど今日は、観察をしないで前や下を見るわけでもなく、ただぼーっとトボトボ歩いていた。2年前から履いているパンプスのヒールは削れ、中の鉄が顔を出しているためガーガーという音を立てている。疲れている時に軽く踵を引きずって歩いてしまう私の悪い癖だ。
仕事帰りで疲れていたのではなく、友達の仕事での自慢話や最近付き合い始めたという彼氏との惚気話に4時間ほど付き合わされて、八方美人の私は嫌な顔せずにこやかに聞いていたのだ。
八方美人は、気を使うから疲れてしまう。別に嫌いな友達ではないが、親友と言うほどでもない人の話だから余計だった。
25年間の人生で八方美人という技を手に入れて、いい事もあるが嫌な事の方が多い気がする。
けれど、この技は私が歩んできた経験から育て上げてきたものだから、八方美人をやめるわけにはいかなかった。
やめてしまったら、自分を否定してしまうことになるのじゃないかとも思う。
周りにへらへらしてる自分はあまり好きじゃないけど…しょうがない。
そして、後悔をする事が多い性格でもある。
他人からみれば、どーでもいいことを気にしすぎて後悔する。
今も歩きながら一人反省会をしていた。
もっと、心から喜んであげられれば…もっと、心から笑ってあげられれば良かったなぁ…そんな事を考えていた。
その時、渋滞の中からキス・ミーが聴こえてきた。
思わず、足を止める。
シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーが歌っている古いポップでシーズ・オール・ザットという映画に使われた、とても可愛い曲だ。歌詞でキス・ミーを何回も繰り返すのが印象的。月明かりで照らされた麦畑が広がる田舎の風景の中、女の子が思いを寄せる男の子にキスをしてくれないかなという気持ちを持ち、はしゃぎながら走り回っているようなそんな曲。
私が小さい頃から母がよく歌っていて、私もとても好きになった。
英語は苦手だったが、一所懸命覚えて小学生の頃にはそれなりに歌えるようになった。
今でも、何かあったときに気がつけば口ずさんでしまうくらい私に浸透した歌だった。
この渋滞の中で誰かが大音量でキス・ミーを聴いている。いや、一緒に歌っているみたい。男の人の声で気持ちよさそうな歌声が聞こえる。残念な事に音は所々微妙に外れてるけど。
私は、周りを見回すとすぐわかった。斜め前にいる4WDなのに綺麗な青空の色をしていてとても映えるピカピカの車から流れているみたいで、窓を開けて聴いているので音がもれているのだ。ゆっくりと歩いて私も曲のお裾分けをさせてもらう事にした。
そして、どんな人が聴いてるのか観察好きの私は興味があったためそっと運転席を覗いてみた。
私より少し年上っぽい感じで服装はGパンにシャツ、そしてキャップという感じのチョットやんちゃそうで軽そうな男性だった。
私は、サラリーマン風の爽やかな感じを想像していた為、内心がっかりだったけど、そんなの彼に対してとても失礼な事で申し訳なく思った。
ちょっと観察しすぎたのか、男性と目が合い、会釈をした後に口だけを動かし何やら呟いた。口の動きからすると「すみません…」と言ったのだろう。
そしてボリュームを下げた。私にはほとんど聞こえなくなってしまった。
彼の顔は夕焼けも手伝って凄く赤くなっていた。
「あ、あの!私、とても好きな曲なので聴き入ってしまったんです、こちらこそ見てしまいすみません」
私は、申し訳なさそうに言った。
確かに、大音量で窓を開けて音楽を聴いてるなんて騒音になる事なのだから、彼が謝るのは正しいのかもしれない。
でも、だからといって自分から声をかけてしまうなんて驚いた。けれど、彼の真っ赤になった顔を見たら言わずにはいられなかった。
真っ赤にさせた原因は私なのだから…
折角、自分が気分良く歌っているところを誰かに壊されてしまたら、とても気分が悪いだろうし、恥ずかしい事だろう。
どうしよう…ごめんなさい…と思っていると
「僕もこの曲が好きなんです。つい歌ってしまうんです。すみません」
また彼が謝ってきた。私は「本当にこちらこそすみません…」と、のろのろ進む車と歩調を合わせてお互い謝り合いを何回もして目が合った時にそこまで謝りあう事はないことに気がつき笑いあった。
それじゃあ…と微笑みながら会釈をして歩き出した。
彼の顔は赤いままだったけれど、きっと私の顔も負けないくらい赤くなっていたと思う。
私は、さっきまで重かった足取りが軽くなっていることに気づいた。
やんちゃそうに見えた彼は「俺」ではなく「僕」と言った。
軽そうだと思った男性は、軽い感じはなく律儀すぎな男性だった。
そう思ったことを心から反省した。しかし後ろ向きな暗い気持ちにはならず、嬉しい気持ちが大きかった。
自分が好きな物を、自分もつい歌ってしまう歌を同じように歌ってしまう人がいたことが嬉しかった。
見た目での自分の想像で、あの男性のイメージを作ってしまっていたが、全く違う素敵な裏切りが嬉しかった。
今日の友達の自慢話と惚気話も嬉しく感じた。
金木犀の香りと夕焼けが嬉しかった。
こんな些細な事で浮かれてしまう自分の単純さが嬉しかった。
私は、いつのまにかキス・ミーを口ずさみながら歩いていた。
2.挨拶
私は、ドアの前に着くとピンポンと呼び鈴を鳴らして鍵を開け家へ入った。
「ただいま」
一人暮らしをしているのだが、必ず「ただいま」と言ってしまう。
「いってきます」「ただいま」「いただきます」「ごちそうさま」等、返ってくる言葉はないけど、自然と言ってしまう私を少し誇らしく思う。小さな礼儀。大事な礼儀。
カバンやジャケットをあるべき場所へ戻し帰ってきてからシャカシャカと音のやる方へ目をやると、もう一度「ただいま」と言った。
畳半分ほどの木製のサークルの中にレッドのトイプードルがいる。
1年ほど前から飼い始めた、私の最高のパートナーだ。
私に「シフォン」と名前をつけられた彼女は、前足を低くしお尻を高く上げ尻尾を振り続けていた。
こんなに尻尾を振っていたらいつか空を飛べるのではないかと思うほど、彼女の振り方はすさまじい。
飼い始めた頃、しつけ方がわからず色々な物が破壊され汚される毎日がとても大変だった。
本やインターネット、動物病院の先生やペットショップの店員に話を聴き自分なりに頑張って一所懸命しつけた。私と一緒に暮らしていく規則を教えていった。
呼び鈴を鳴らして家へ入ったのもしつけの一つだった。
お客さんが入ってきても吠えたりしないようにするためだ。
現在の彼女は、私を困らせる事は少なくなり私と一緒に快適な暮らしを過ごしている。
私がシフォンを飼うきっかけとなったのは、2年前に発症した精神的な病がきっかけだった。
それまでは、ある程度の大きさの企業で受付嬢をしていたのだ。
特別美人という顔ではないが、オリジナリティある顔でもない。ぱっと見だと褒められる部類に入る顔程度。服装は気に入ったら何年でも着てしまう、流行とかには特に敏感ではなく、くたびれたヴィトンのカバンを持っていても特に気にならなかったが、人目は気になるため、色々な部分に気を使いすぎた。ヴィトンのカバンも使わなくなった。
八方美人すぎた私の性格の所為か、心が壊れ始めていた。
ある日、いつもの電車で揺られていると段々と私の周りの酸素が無くなってしまったみたいで、苦しくてもがいていた。周りの人達の助けで救急車で運ばれ、結果「パニック障害による過喚起症候群」というわけのわからない事を言われたが、酸素が無くなったのではなく、逆に酸素をとりすぎてしまって体の中の二酸化炭素が足らなくなっていたらしい。一般的には過呼吸と呼ばれてるらしい。
医者はゆっくり治していきましょうと言っていた。
それからというもの私は、ほぼ毎日発作を起こすようになった。
人前でパニックに陥る事を恐れ電車やバスへ乗る事が怖くなり当時勤めていた会社へ通勤する事が出来なくなった。
そればかりか外へ出ることや人と接する事も怖くなり、実家で暮らしていた私は自分の部屋からもあまり出なくなる日々が半年以上続いた。
両親は昔ながらの典型的な夫婦だったので、精神病などという病の存在は認めたがらなかった。そんな両親の子供だけに病に侵されていた私でさえも認めることは難しかったが自分の行動を考えると認めざるにはいられなかった。
だが、さすがに半年もそんな状態が続くと両親も認めはじめていた。
このままではいけない。
それは、両親だけではなく、私にもわかっていた。
でも、どうしていいかわからない。何を始めていかなければいけないのかがわからない。人並みに生きていく為には、まず何をしなくちゃいけないのか…考えすぎて不安になり発作が起きる。
父親は、私に一人暮らしを提案した。
とても不安になった。世間体を気にする両親は邪魔な私を追い払おうとしているのではないかと思った。見捨てられたと思った。
母親は、まともに外に出られない私には無理だと父親を説得していた。
父親は、だからこそ一人で暮らせば生きていく上で外へ出なければいけないのだから、甘えさせてはいけない。と怒鳴りながら言っていた。
次の日、実家から車で二十分ほど離れた所の1kのマンションの物件を父親が見つけてきて、二週間後には一人暮らしを始めていた。
しかし、無理やり外に出され一人で住んでいても、実家にいる時とたいして変わらず、外に出ようとは思わなかった。
そんな状況を見てペット雑誌の編集長をしていた兄が突然、私の元へ仔犬を連れてきたのだ。
それが、レッドのトイプードルで後にシフォンと名づけられる。
私は、ティッシュ箱サイズの小さな彼女のために外へ出て色々な用品をそろえたし、病院へも連れて行ったりした。
不思議と外の世界が怖くは無かった。
私の生活も規則正しくなっていった。自分が倒れてしまったら私だけが頼りのこの小さな命が消えてしまうのことを恐れたからだ。
シフォンが来て1ヶ月ほどする頃の私は彼女と一緒に散歩がしたくなっていた。
ワクチンのため動物病院へ連れて行くと「お散歩は10日後位からしていいですよ」と言われた。
散歩が出来るようになると、外が楽しくなった。
生活費は、最初のうちは会社勤めしていたときの貯金を使っていたが、底をつきはじめ様とした頃、兄が編集長という肩書きを利用して私に仕事を与えてくれた。
絵を描くのが得意な私の才能を使い、写真と絵の構成で出来たシフォンの成長や日常を綴っていく漫画を4ページ程与えてもらった。
とても楽しかったが、さすがにそれだけでは生活していくのは困難だった。
歩いて5分ほどの場所に古くからの親友がドックカフェのオーナーをしていた。
親友も私のためにオーナーの権力を利用し仕事を与えてくれた。
アルバイトのシフト作成、売り上げ計算や棚卸しの仕事だった。
週4、5日で何時に行っても良いと言うのが不眠症やパニック障害を持った私にとっては救いだった。
その二つの仕事でなんとか生活をしていた。
私は、ほぼ毎日シフォンの散歩がてらカフェへ行き仕事をした。
シフォンもそこはお気に入りの場所だった。
他の仲間達と遊ぶのも楽しみにしていたのだろうが、彼女の目的はアルバイト達から貰えるお菓子がメインだった。
シフォンの腹回りが最近丸くなった気がして、週に1,2回はドックランへ連れて行き思い切り運動させていた。
ドックランとは犬達を自由に思う存分ノーリードで放して遊ばせてあげられ、他の犬たちとも交流が持てる、いわば犬専用の運動場のような所だ。
ある日、カフェでの仕事を終わらせドックランへ行くと二組の客が利用していた。
常連客の一人である40代くらいの女性と初めて見る家族連れだった。
それなのに、犬の数は4頭。シフォンを入れれば5頭である。
常連の女性がトイプードルを3頭も飼っているのだ。
しかも、家族連れの犬もトイプードルだった。
プードルだらけの状況に少し笑った。
シフォンは必ず人間と犬達に挨拶をする。彼女は律儀な性格らしい。
全員に挨拶をして回る。
飼い主とペットは似るというが、彼女もやはり八方美人だった。
人間にも犬達にも、すぐひっくり返り腹を見せ、おまけに尻尾まで振っていた。
八方美人の上出来な「挨拶」だった。
私は、彼女の「挨拶」を見ると自分と重なり複雑な気分になったが、それでいいと心から思い、類は友を呼ぶ事に嬉しさを感じた。
一通りの挨拶を終わらせたシフォンはスキップのような足取りで一人で走り回っていた。
私は、いつも座っているベンチに腰掛け、走り続けていてよく疲れないなぁ…と思い、たまに名前を呼んで呼び寄せ水を飲ませたりした。
楽しそうにはしゃいで走り回っている彼女の目の前に突然、真っ黒な物体が現れた。
毛の短い真っ黒なダックスフンドだ。
よく見かけるマロみたいな柄は無く、全てが真っ黒な珍しいダックスだった。
「まずい…」
私は呟き立ち上がった。
シフォンは3ヶ月前に、このドックランでお決まりの挨拶中にいきなりどこからか現れた黒いダックスに咬まれたのだ。
多少の出血はあったが、傷自体はたいした事なかった。
だが、黒いダックスはトラウマになってしまった。
咬んだ犬だけ苦手になってくれれば良かったのだが、黒いダックス全部がだめになってしまった。
八方美人で気の弱い彼女は、咬みついたり唸ったりという行為はしない。
街中ですれ違う時やドックランで黒いダックスに出会うと、シフォンはペタンとお尻をつき、耳を伏せ目を閉じ、ぶるぶると震えていた。
咬まないで下さい。と言ってるつもりなのだろうが、どうぞ好きなだけ咬んでください。と言ってるようにしか見えなかった。私は「負け犬」のポーズと呼んでいた。
とにかく、彼女の目の前には今、黒いダックスがいる。
助けてあげなければと思い、歩き出そうとしたら、
2頭は目が合った瞬間3秒くらい見つめあい、同時に「挨拶」のポーズを取った。
驚いた。
「負け犬」のポーズではなく「挨拶」をするなんて!
しかも、「1、2の3、はい!」といった感じで、2頭同時にやるものだから芸に見えた。
そこにいた、お客さんが皆笑っていた。
40代の女性も家族連れの家族全員と私とダックスの飼い主の全員が笑い、その2頭を冷やかすかのように他の犬達も集まってぐるぐる回って笑っているようだった。
私は、ひっくり返ってる2頭に近づき手を腰に当てて覗き込みながら
「挨拶は、それくらいでいいんじゃないの?」と言った。
そばにいたダックスの飼い主は笑い「可愛いですねぇ。それに僕の犬にも初めて友達が出来たみたいです」と言い、そこで人間通し始めて目をあわし挨拶を交わした。
そして、また驚いた。
そう、あのキス・ミーの男性だった。
しかし私は驚きの表情は表面に出さず、以前のチョットした出会いは忘れたように演技をし会話を続けようとした。
だが彼は素直に驚いた顔をして、そして素直に
「もしかして、あの時の…その…キス・ミーの…あの時の方ですか?」
と聞いてきた。
その素直な質問に私は、忘れたふりをしようとしていた自分が恥ずかしくなった。
だって自分にとってはあの素敵な出来事を彼が忘れていたらショックだったから。
しかし、彼は素直に聞いてきた。
あぁ…私は、また卑怯な事を考えてしまったのか…と反省していた。
なかなか私の答えが返ってこないので彼は
「あ、違いましたか!僕の勘違いです。すみません」
と言った。私は慌てて首を横に振り「そうです、そうです。私です」と答えた。
私達の足元で挨拶を交し合った2頭は仲良くじゃれあって遊んでいた。
二人でベンチに座り「あの時は、すみませんでした」と再度お互い謝りの言葉を交わした。
「僕達、謝りあってばかりですね」
「そうですね。でも、あの時は私が…本当に」
また謝ろうとする私の言葉を彼は大きな手を出し制し、目を細め微笑むと
「僕の犬の名前はコゲと言います。ダックスのブラックソリッドという珍しい色で全身真っ黒なんです。2年前、一目惚れして飼いました。女の子で、弱気な性格なのか他の犬達となかなか上手に遊べなくて…もぅ、コゲに友達は出来ないと思っていたから驚きました。あなたの犬とは友達になれたみたいです。彼女の始めての友達です」
嬉しいなぁ…と彼は呟き、まだじゃれついて遊んでいる2頭を見た。
「私も驚いているんです。シフォンは黒いダックスが苦手だったから」
彼は、不思議そうに私の顔を見た。それは嘘でしょ?といったような顔だった。
苦手なわけと、「挨拶」、「負け犬」のポーズを彼に話した。
彼は、私の話を表情豊かに聞いてくれていた。笑ったり、悲しんだり、こわばったり。
話し終わる頃、シフォンは彼に「挨拶」するのを今まで忘れていたらしく、慌てて飛んできて「挨拶」した。その横でシフォンを追いかけてきたコゲも、シフォンに習って私に「挨拶」をしてくれた。
そろそろドックランの利用時間も1時間になろうとしていた。
私は、帰り支度をしていると、
「帰られるんですか?お忙しいんですか?」
「忙しくはないんですが…ドックランはよく来るので1時間くらいにしないと費用が…それに喉も渇いたし」
と、恥ずかしながら答えると
「よかったら、これから一緒にドックカフェにでも行きませんか?」
え?とビックリして、聞こえたのに考える時間が欲しくて聞き返すと
「あ、いや、僕も喉渇いたし、もう少し一緒にいたいんです」
えぇ!?と更に驚いたが、私よりも彼が驚いた顔をして、両手を顔の前で振りながら慌てて付け加えた。
「コゲが初めて出来た友達だから、もう少しシフォンちゃんと一緒にいさせてあげたいんです」
また、彼の顔は真っ赤になっていた。
なんだか可笑しくて、軽い人ではないのだろうと改めて思った。
なによりナンパ以外のこの程度の誘いなら断れない性格の八方美人の私は笑顔で
「じゃあ、コゲちゃんとシフォンの出会いをお祝いしましょうか」
と、答えた。
彼は、ホッと胸をなでおろし微笑んで
「僕の名前は、篠塚 響(しのづか きょう)と言います」
「私の名前は、一ノ瀬 詩(いちのせ うた)です。よろしく」
初めてお互いの名前を交わし、握手をして挨拶をした。
3.一歩
私が働いているドックカフェへ着いて、ガラス製のドアを開けると
「わぁ、詩さんデートですかぁ?」
と、「いらっしゃいませ」よりも先にその声が聞こえた。
「デートじゃなくて、ドックランでシフォンに新しいお友達が出来たからお祝いしようと思ってきたの」
私は黒いダックスに目をやった。手の空いていた2、3人の店員達が集まっていた。
店員達は、不思議そうだった。事情を知っている者ならシフォンが黒いダックスと仲良くしてるのは摩訶不思議だったのだ。そして、納得したように一人の若い女の店員は深く頷き真剣な声で
「そうですね…これは、お祝いしなきゃいけないですよ。奇跡が起こったんですもの。少しのサービスならオーナーに怒られないですよね。この運命の出会いに乾杯しなきゃ!あ、怒られちゃったらオーナーに上手く言ってくださいね、詩さん。コゲちゃん、シフォンをよろしくね」
なんだか違和感があったが、考える間は無く席に案内されシフトの事で少し相談を受けた。
そして席に着くと2頭はテーブルの下で仲良く寄り添い寝てしまった。篠塚さんは穏やかな声で「ここで働いているんですねぇ」と言った。
「表には立ってないの。裏方の仕事を少しだけやらせてもらっているんです。他のところの方がよかったですか?ここだとサービスしてくれるかと思って悪知恵が働いちゃったんです」
「素敵な悪知恵ですね。僕、ここのお店の雰囲気好きですよ。ソファーも座り心地が良くて白を基調とした店内は明るく感じて、なにより店員が優しいんですよね。極めつけはここのオレンジティスカッシュが美味しい!」
私が目を見開くと
「僕はここに週1回来るんですよ」と付け加えた。
私はさっき感じた違和感の謎がわかり胸がすっとした。そうだ、私が紹介もしてないのにアルバイトは「コゲちゃん」と呼んだのだ。状況を一番把握してると思っていた私が一番把握していなかったのだ。思わず私は声を出して笑ってしまった。
「世間は狭いですね。でもこんな偶然なら狭くても悪くないです。むしろ狭い方が好きです」
私はテーブルに片肘をつき頬を乗せ、目を細めてわざと意地悪っぽく
「あ〜ぁ、でもアルバイトの子達や篠塚さんになんだかおちょくられちゃった感じだなぁ。もちろん、こんなのだったら悪くないですけどね」
「僕は最初、一ノ瀬さんもここの常連だと思ったんですよ。でもなんか雰囲気が違うなぁと思って黙って見ていただけだよ」
「事情をわかっていたとしても、黙って見ていたんでしょ?」
「もちろん」
お互い、笑いあった。わかりきった質問とわかりきった答えが返ってくるのが嬉しく可笑しかった。
「でも、僕より先に黙って見ていたのは一ノ瀬さんの方だけどね」
私は、最初に会った日のことを思い出した。そうだ、確かに最初に観察していたのは私だ。その行動を思い出すとなんだか恥ずかしくなってしまい、
「じゃあ、おあいこかな〜。でもキス・ミーが聞こえてきたんだもん。大音量で聴いてる篠塚さんの責任じゃない?」
しまった!また、心にも無い事を…私はどうして恥ずかしかったり褒められたりするとひねくれた事を言ってしまうんだろう。弁解しようにも、素直になれない。どうしよう…だからきつい人間と思われてしまうんだ。
クックックと笑う声が聞こえて彼の方を見ると下を向き肩が震えて口を手で押さえていた。
私と目が合うと、声を出して笑いだした。なぜだろう、と訳がわからない私は首をかしげていた。ようやく彼が口を開いて
「今の詩さん、表情に全部出てましたよ。隠そうとしてるのに、隠せず…。責任じゃない?って言った後の顔はおもしろかった。素直な感情を出すのが苦手なんですね。僕とは大違いだなぁ。まぁ、確かに街中で大音量で音楽を聴いていた僕の責任の方が大きい。でも、感情を必死に隠しているのに、僕には筒抜けのように見える。それが楽しい。僕は天邪鬼だからね。」
この人は優しい人だと心から思い涙が出そうなのを耐えた。嬉しかった。自分の感情に気づいてくれる人がいることが嬉しかった。親でもない、知り合ったばかりの人がわかってくれて許してくれている、そして自分が悪かったと言っているのだ。なんて優しい人なんだろう。
「ごめんなさい」
彼の優しい言葉で自然にその言葉が出た。
彼は何も言わず、優しく微笑んで
「キス・ミーは良い曲ですね。つい歌ってしまって、音痴なんですが歌っちゃいます。あ、音痴なのは知ってるか…」
「しっかり聴かせてもらいました。篠塚さんの歌声。でも、そこまで音痴ではないと思いますよ。所々外れてるって感じだったから」
「まいったなぁ。全然フォローになってないじゃんか。自分でも外れてることはわかっているんだけど、その音程が出てこないんだよなぁ…。ところで詩さんは何でキス・ミーを知ったの?ちなみに僕は中学生の頃ラジオを聞いてたら流れて…それで次の日CDを買いに行ったんだ」
「私の場合は、母がよく口ずさんでいたんです。それで私も覚えて。今では私も母と同じように口ずさんじゃう。英語が苦手な母と娘が必死に覚えた洋楽なの」
「じゃあ家族で歌ったりしていたんだ?」
私は首を横に振って
「父は典型的な昔ながらの古臭い考えを持った頑固親父なんです。演歌だけが日本人が歌っていい歌みたいな。いや、頑固親父を否定してるわけでは無くて、頑固な人は好きですよ。でも毎日のようにその歌を聞いてた父もたまに口ずさんでは顔を真っ赤にしてキョロキョロしていて、私と母は聞いてないふりをして必死に笑いをこらえていましたよ」
彼は想像をしたら面白い構造が出来上がったのか吹き出して笑った。そんな彼を見て私も父の姿を思い出し笑った。
シフォンは、たった今アルバイトが「サービスです」とこっそり持ってきてくれた犬用ケーキの香りで目を覚ました。
私に向かって尻尾を振って催促しているようだ。もうお座りをして潤んだ瞳を武器に頑張って待っている。
「篠塚さん、シフォンのとっておきの芸をお見せしますね」
彼は身を乗り出してワクワクした目でシフォンを見つめた。それを確認した私は小さなケーキを持ち、シフォンに向かって頬を出し指で指して「キス・ミー」と言うとシフォンは私の頬に湿った黒い鼻を押し当てた。
他の人から見たら普通の芸だが、私達にとってキス・ミーは「とっておきの芸」なのだ。彼は感動したみたいでコゲを叩き起こして、もう一度!とアンコールした。今の芸をコゲに教えたいらしかった。
何回かしてるうちに、彼の前で「キス・ミー」と言ってる自分がなんとなく恥ずかしくなった。
お互いの色々な話もした。篠塚さんは、27歳。独身。一人暮らし。音痴なのにピアノニストらしく夜のバーで弾いたりコンサートをしてるらしかった。両親もピアニストだったため名前が「響」というらしい。少し音痴だけど耳には自信があり絶対音感はあると豪語していた。本人が言うのだからそうなんだろう。私は、病気のことは伏せて上手い具合に自分のことを話した。25歳。独身。一人暮らし。そして雑誌の話をすると彼は、やっぱり…と呟いた。
実は彼は毎月その雑誌を買っていて写っている場所やシフォンの顔や名前で、もしかしたら…と思ったらしいのだが聞いちゃいけない気がしたらしく黙っていたらしかった。
「なぜ、黙ってたの?聞いてくれたら答えたのに」
「なんか、プライベートですからって言われると思ったんだ」
「芸能人じゃないんだから」
私は笑って、彼もやや時間があって笑った。
アルバイト達の「詩さん」が移ったのか、いつの間にか彼は私の事を「詩さん」と呼び、敬語もそこまで使わなくなっていった。
私達は、楽しい一時を過ごしカフェを出たときにはもう日が暮れていた。
途中まで送ります。という彼の申し出にお礼を言って頷き途中の公園に差し掛かったときに、
「ここで大丈夫です。今日は、楽しい時間をありがとうございました。それと、ご馳走様でした」
「いや、僕が誘ったんだし。それに僕の方が楽しかったと思うよ。なんとなくね」
「いや、私のほうが楽しかったはず!」
「僕だよ」「私」「僕」「私」…と、また笑いあった。
突然黙り込んだ彼の顔を見るとなぜか真っ赤になっていた。なんだろうと思った瞬間
「また、会いたいんだけど、今度はいつ会えるかな?」
コゲの為にシフォンを会わせたいと言っているのだと思い
「そうですねぇ…ドックランは来週に行きますし、毎日散歩でここら辺徘徊してますよ」
「い、いや。コゲの事ではなく。その…僕が君に会いたいんだ。もちろん、コゲとシフォンも一緒でいいんだけど。今度はコゲの為のお願いじゃなく、僕自身のお願いなんだけど…ダメですか?」
その瞬間、私の心が思い切り締め付けられ胸が痛くなった。赤面ウィルスが感染して私も顔が熱かった。ただのデートの誘いなのに、普段の自分ならこんなことなく軽くOKするか聞き流すのに…。この人の言葉に重みがあるんだと思った。真剣に誘ってくれている事がわかったし、私も誘われたかったのかもしれない。だから嬉しくて胸が痛くなったのだ。
だけど…
「私は…基本的にいつでも空いてますが予定はあまり入れられないので、携帯の番号とメールアドレスを教えますのでそれで連絡を取り合いませんか?」
「本当に?ありがとう!」
お互いの携帯電話の黒い部分を向き合わせ赤外通信で番号を交換した。
「連絡します。メールも入れます」
彼はとても嬉しそうにしてくれた。私も嬉しかったが、心にしこりが残る。
時間があるのに予定を入れられない…
それは病気のせいだった。約束が次の日に迫ると心配性になっている私の精神は慌て始める。起きられなかったらどうしようとか、何かで遅刻してしまったら…と考えると眠れなく一睡もしないで会うことになるのだ。それでもいいのだが、やはり疲れてしまう…当日に会えれば会っていければいいと思った。でも病気の事を隠すのは後ろめたく思った。
「心配しなくていいですよ」
ふと優しい声で彼が言った。
「わかってますよ。大丈夫です。ゆっくり僕の事を知って下さい。僕もゆっくり知っていきます。でも、世間は詩さんのことを詩さんが知らない人でも知っているんですよ。もちろん、全ての人間に比べたら微々たる数だけど。でも知ってるんです。だから心配しないでいいんですよ」
何を言ってるのかわからないけど、彼の言ってることが本当なら
「あの、それって余計心配で怖いんですが…」
自分のことを自分が知らない何人かの人がいて、私の何かを知っているから大丈夫。…ってそんなの全然平気じゃない。怖いだけだ。彼は何者?不審な顔で彼を見た。
「自分のお仕事、忘れちゃったの?」
あ、そうだ。私は雑誌を書いている。シフォンの事を。でも、私の写真は載せていないはずだ。
困った顔をして考えていると、彼は「そんなに悩まないでよ」と微笑み
「シフォンの成長を僕は毎月見てきたんだ。作者がどんな経由でシフォンを迎え入れたか書いてあった。もちろん、読者は作者の顔を知らない。でもシフォンとセットで本人から聞かされたら疑う余地は無いし、話をしてれば、あそこに描かれている事は真実なんだと思える。本当の日常と本当の感想や気持ちを書いていたんだと。だから、言わなくてもいい。知ってるから。だから大丈夫。僕は知ってるから」
彼は、恥ずかしそうに目をそらし、僕とコゲは運命的な出会いが出来て幸せだな。とコゲを見た。
私は泣いていた。嬉しかった。さっきのカフェでもそうだったけど、彼は私の気持ちを感じ取ってくれる。私は、嬉しかった。けれど、自分で言わなくちゃいけないんじゃないのか。そこから先は私が彼に言うべきなんだと思った。私は涙を拭き真っ直ぐに彼を見て
「そうです。今の私は精神的な病気にかかっています。もし発作が起きた時でも過喚起になるだけで袋などで二酸化炭素を吸えばすぐ楽になります。でも体調がすぐれないと突然の発作に襲われ苦しんだりします。だから、予定を組むのは難しいし、バスや電車や遊園地の乗り物も苦手です。映画館も…だから…だから…」
だんだんと、彼の目から視線を逸らしていく…彼の目を見ることが出来ない…予定を期待をしないで下さい。と言わなければいけないのに期待をしているのは私だから、その言葉をいうのにためらった…
「ありがとう。説明してくれて、危うく一緒に映画にでもって誘ったら、詩さんは困ってたもんね」
彼は笑った。まるでそれは悲しい事じゃなくて冗談を言ったかのように。その言動で凄く心が軽くなった。私が出来る事と出来ない事をゆっくり知ってもらえればいいのだ。
「あ、車は大丈夫です。具合悪くなったら路肩に停めてもらえるから。」
そう言って見つめあい微笑んだ。
もう少し送らせて。と言われ頷き、私達は自然と手を繋ぎ最初の一歩をゆっくり歩き始めた。
4.ありがとう
手足が痺れていた。寒気と吐き気に襲われ段々と呼吸が苦しくなる。この世に酸素が無くなっているみたいだった。もっと酸素を!死んでしまう!死にたくない!苦しい。手足が硬直し始めた。私は死ぬんだと思った。もうすぐ私は死んでしまう。死にたくないのに。もっと酸素を!酸素を!!!泣きながら必死にもがいていた。
口にガサガサしたものが当てられると、だんだん呼吸が楽になっていく…血が全身を回りだして暖かさが戻り始め意識もはっきりしはじめた、あぁ…死ななかった。よかった。生きてる。私は生きている。生きていられるんだ…。今度は安堵の涙が溢れ出した。
口元に当てられてるものを見ると、ファーストフード店の紙袋だった。その先に心配そうに覗き込んでいる、男の顔があった。
「響君…ごめんね…ごめんなさい…もう、大丈夫…ごめんなさい…」
「もう大丈夫?苦しくない?何か飲む?水、買ってくるよ」
彼は、そう言って車から降りると目の前にあるコンビニエンスストアに入っていった。
今日は、2度目のデートだった。
雑誌の期日が昨日の18時までで書きたいことがまとまらず、3日程ほぼ寝ないでなんとかギリギリ間に合って提出した。
そして、シフォンと散歩をしていた時に携帯電話が鳴った。
〜着信 篠塚 響〜
「はいは〜い!」
私は、寝不足という感じは見せずに元気よく電話に出た。
「詩?今、電話大丈夫?」
「うん、シフォンと散歩中」
「今日の夜予定あいてる?もしよければ、一緒に流れ星を見に行こうかと思って。流星群が流れるみたいなんだ。昔のしし座流星群ほどでは無いらしいんだけど…流れ星見たこと無いって言ってたから。どうかな?」
ぼそっと言った私の一言を覚えていてくれた事が嬉しくて舞い上がった。付き合い始めて間もないのだから当たり前で、ときめいてる自分が好きだった。
「見たい!どこで見るの?いつもの公園?」
うきうきですぐOKの返事をした。
「少し車で走って海に行こうかと思うんだけど、近場がいい…かな?…よね」
「海?久々!ありがとう。初めてのドライブだね!楽しみ」
「喜んでくれてよかった。じゃあ、7時頃迎えに行くね」
「待ってます。あ、響君。気をつけてね」
あの一歩を歩き出してから1度デートをして毎日の様に連絡を取るようになり距離が縮まった私達は、お互いを「詩」「響君」と呼ぶようになっていた。
携帯電話をパーカーのポケットにしまうと、シフォンに「聞こえた?いいでしょ?」と言い、頭の中でドライブ、海、流れ星、ドライブ、海、流れ星…と繰り返し、5回目のドライブと思ったときに不安がよぎる。体は大丈夫だろうか?3日ほどあまり休んでいない…発作が出てしまったらどうしよう…みっともない姿を見せたら嫌われてしまうかもしれない…でも今明るくOKしてしまったし…何より私が行きたい。会いたい。とても会いたい。そうだ、大丈夫。これだけ会いたいと思ってわくわくしているのだから発作なんか忘れて楽しめる。大丈夫、大丈夫。
家に帰り、軽く化粧をして身支度を整え、発作が出てはいけないと思い発作止めの薬を飲もうと手に取った。
発作止めの薬を今、飲んでしまったら…ぼーっとしてきっと寝てしまう…そんなことは出来ない。飲んじゃいけない…大丈夫、楽しいはず。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
そして、迎えに来てくれた彼の車に乗り込んだ。
大丈夫ではなかった。
確か出発して20分ほど経ってまず吐き気が出てきた。車酔いと思いこむようにして「窓開けていい?」とそれだけ聞いて窓を開けてもらった。その時に「大丈夫?休もうか?」と言う言葉に甘えてればよかったのだろうけど、強がってしまった。
そして、口で息をしないと苦しくなってきたが我慢していた。
頑張れ。見られたら嫌われるかもしれない。我慢して。落ち着きなさい。と自分に言い聞かせていた。
しばらくして異変に気がついた彼は私を見て「顔が真っ青だ!すぐ側にコンビニがあるからそこで休もう。詩?大丈夫?」と慌てていた。もう、その時点で大丈夫ではなく、「大丈夫」と答える事も出来なくなってしまっていた。
パニックに陥った私に彼は以前言った通りに袋を口に当てて対処してくれたのだ。
大失敗。大失態。無理して余計に大変な目に合わせてしまった。迷惑をかけてしまった。もう、だめだ。付き合って間もない私達の恋は終わってしまうだろう。今日は断ればよかった。自分の体調に目を伏せた事を今更後悔しても遅い。
後悔が先に立ってくれたらいいのに…
運転席のドアが開きコンビニの袋を持った彼が帰ってきた。顔が険しい。やはり怒っているようだ
「はい、お水。もう大丈夫?」
「ごめんなさい…大丈夫です…ごめんなさい」
彼は大きな溜息をつきシートに背中をつけ目を瞑り黙ってしまった。
「まったく、何してるんだよ、お前は…」
そう言うと、また溜息をついた。
やっぱり終わってしまった。私が無理をしたばっかりに終わってしまう…。早く、家に帰りたい。
あのさ…ボソッと彼が口を開いた時、びっくりして肩が動いてしまった。また発作が起きたら…今度は私が目を瞑る。
「海まで、あと10分くらいで着くんだけど出発しても平気?」
なんだろう、海で別れ話をするのかな…綺麗に別れたいのかしら…でも今の私に選ぶ権利は無い。
「大丈夫」
彼は私の言葉を聞き車を出発させた。そして、道路に出ると頭をポンポンと撫でられ
「よかったよ」
そう言って私のほうをチラッと見ると
「詩に発作の対処法を聞いてなかったら、おろおろするだけで何も出来なかった。きちんと対処出来てた?初めてだったから緊張しちゃって…気がついてあげられなくてごめんね」
なんで…?口が勝手に動いた
「何で響君が謝るの?私が自分の体調管理をしっかりしてなかったからいけないのに…無理して我慢して会ってしまったから、迷惑をかけたのに…見苦しい姿を見せて…本当にごめんなさい…」
彼は前を見ながら真剣さの中に優しい顔をしながら
「そうだね。詩も悪い。でもそれは無理して我慢して会おうと思ったことが悪いんじゃない。具合が悪い事、自分の体調の事を僕に言わなかった事が悪いよね。無理してでも会ってくれることは嬉しいよ。でも体調が悪い時や悪くなった時は、すぐ言って欲しかったな。僕はまだ発作を見たことが無かったからどうなるのかがよくわからなかったから。でも、僕も詩が無理をする性格を知っておきながら一緒にドライブしていることが嬉しくて気がつかなかった事が悪い。きちんと準備はしておいたんだけど…」
そう言って、私の前にあるダッシュボードを開けた。そこには様々なお店のティッシュ箱サイズの紙袋が20枚ほど入っていた。私が持っている数より多い。
「これ…」
私は紙袋を見つめながら言った。
「過喚起にはビニール袋より紙袋の方がいいって書いてあったんだ。だから詩が安心して車に乗れるように集めてみたんだけど、それでいいんだよね?足りないかな?どのくらいあればいい?教えてくれる?」
真剣に話す彼の質問に言葉が出ない。嬉しすぎて心が痛い。喉の奥が熱くなって言葉の代わりに涙が次から次へと流れた。彼の思いやりをしっかりと胸に抱きしめていた。
「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」
やっと言えた言葉はそれしか出てこない。その言葉が私の全身を流れていたのだからその言葉しか出ない。
「うん、ごめんよりもありがとうの方がやっぱり嬉しいね。僕は少しも迷惑だなんて感じていないよ。苦しそうで辛そうだったけど見苦しいとは思わない。詩の事を知っていきたいから。でも急がなくていいんだ。ゆっくりとちゃんと理解していきたい。前にそう言ったよね。大丈夫、僕といる時は安心していいんだ」
素直な人だから素直に心に言葉が伝わってくる。彼の心はどこまで大きいのだろう。彼を失いたくない。私は「ありがとう」と繰り返し言うことしか出来なかった。
5.願い
「さぁ、着いたよ」
泣いた後の、まだ瞳も潤んでいてぼーっとしていた頃に彼にそう言われ前を見ると真っ黒な海と濃い青の空に輝く星の世界が広がっていた。
車から降りて周りを見ると何組かのカップルや家族連れがいた。
「そこまで奥地じゃないから少し見えにくいかもしれないけど、見られるといいね。流れ星」
「うん。見たいなぁ」
しかし、外はもう冬を目前にした秋で気温がころころ変わる今の時期、海辺はジャケットだけでは寒かった。
「車の中入ろうか?サンルーフから見る?」
私はゆっくりと首を振って
「せっかくだから、もう少しだけ。無理はしてないから大丈夫」
彼は微笑むと、そっと私の肩を抱いてくれた。暖かい。
少しだけ彼に寄りかかるようにして、二人で空を見上げる。
周りに人がいるのに静かに波の音だけが響いている。
皆、いつ流れるかわからない星を待ち続けている。
人は期待をしている時はいつまでも待ち続けられるのだろう。
幸せな気持ちになれるのならば、待ち続ける事や苦労を乗り切ることができる。
例えそれがほんの些細で小さな幸せでも、自分が苦労してきた分大きく感じられるのだろう。
私は幸せな気持ちで生きていくために、彼の幸せを支えて生きていきたい。
無理をせず私が出来る事を一つずつ、ゆっくりと。
自分の幸せが自分以外の人の幸せなんて、それだけで幸せなのかもしれない。
彼と「おはよう」や「おやすみ」とか色々な挨拶を交わすたびに小さな幸せを感じられる今を大切にしてこれからも続けていきたい。
二人で小さな幸せを何倍にして一歩一歩踏みしめながら歩いていきたい。
そして幸せを見つけるたびに「ありがとう」と言うだろう。
星が流れてくれたら何を願おう。
この綺麗な月明かりの下で何を願おう。
その時、空に一筋の光が走った。
ところどころで歓声が聞こえる。
空を見ながら私は聞いた。
「あれが、流れ星?」
「そう、あれが流れ星だよ。どうだった?」
「本当に願い事なんて言う暇ないね。小分けにして言わなきゃいけないのね。でも見れただけでとても幸せな気分。きっと今日見た流れ星は特別な幸せを運んできてくれたんだね。」
「そうだね。僕も幸せな気分だよ。それで何を願おうとしたの?」
「………秘密」
空を見上げながら、私は顔を赤らめながら願い事をしっかりと心で抱きしめた。
そしてまた星が流れた。
そしてもう一つ。
私の願い事は届いただろうか。
ゆっくりと彼を見ると彼も私を見つめていた…
もう一度心の中で唱える…
…キス・ミー
完
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