闇の中の住人
せっかくママにはかせてもらったパジャマのズボンがずり落ちるほど、
ボウヤはベットで暴れます。
ママの怒る声など屁のカッパ、ボウヤはまだまだ眠たくありません。
「しょうがない子ね、おまえが早く眠れるようにママがお話聞かせてあげましょう。
悪い子はだあれ?ホラ、みんなが探していますよ」
「悪い子ってどんな子?」
「いつまでも眠らない子供のことよ」
「みんなってだれ?ボクの知っている人?」
「いいえ、それは私達とは別の世界に住んでいる人達よ。
彼らはこちらの世界にものすごく興味があるの。
静かにしないと見つけられてしまうからね」
「見つけられたらどうなるの?」
「それはわからないわ、とても恐ろしいことになるそうよ。
でも、心配いらないわね、うちには悪い子なんていないもの。
さあ、もうお話始めていいかしら?」
コクンとボウヤはうなずいて神妙な顔でママのお話を聞きました。
ある学者が三匹の猫と一緒に暮らしておりました。
猫の名前はブ−フ−ウ−。
もう二年も一緒に暮らしているのにブ−とフ−だけが仲良しで、
ウ−はいつも独りぼっちで寂しそうでした。
学者はウ−を不憫に思い、いつも膝に乗せて可愛がりました。
ある日ブ−フ−ウ−が大喧嘩をしました。
まあ猫同志の喧嘩は仕方ありません。もともと仲の悪い二匹と一匹です。
いつかはこんなことになると学者も思っておりました。
でも、喧嘩が始まるちょっと前にウ−が見せた顔は学者にとって忘れられないものになりました。
ウ−はカウンタ−の上に乗っていて、下ではブ−とフ−がじゃれあっていました。
学者は入れたばかりのコ−ヒ−を飲みながら、何気なしにウ−の後ろ姿を見ています。
その時ウ−がゆっくりと振り向きました。それはとても悲しい目に見えました。
まるで今から自殺するかのような思い詰めた目でした。
そして次の瞬間ウ−はブ−とフ−の寝ているところに飛び下りたのです。
たちまち三匹は丸いボ−ルになり、あたり一面に毛が舞い上がりました。
もし学者が止めに入らなければ、三匹は死ぬまで噛み合いを止めなかったでしょう。
それはただウ−が飛び下りる場所を間違えただけなのかも知れません。
でも、学者には確信がありました。
ウ−はいつも独りぼっちで、ブ−とフ−が仲良くするのを羨ましく思っていたに違いありません。
どんなに寂しかったことでしょう。
「ボクもう決めたんだ、あいつらの中に飛び込んでやる。それで死んでもかまわない。
だってこのままじゃ辛いんだもの」
そんな言葉がウーの目から聞こえてきたのです。
そしてそれ以後ブ−とフ−は、ウ−が側を通っても唸らなくなりました。
たぶんウ−の決死のダイブで二匹がウ−の存在を認めたのでしょう。
あっ、いつの間にかボウヤは眠ったようですね。
それでは続きはまた明日。
ママは静かにボウヤの部屋の明かりを消しました。
(二夜目のお話)
今夜のボウヤはとてもおりこうでした。歯もちゃんと磨いてパシャマも自分で着て
ベットの中でママが来るのを待ちました。
やがてニコニコ顔のママが現れて、お話の続きがはじまりました。
ある日学者はテレビを見ながら晩の御飯を食べていました。
画面では今問題になっている牛肉を安全に食べるにはどうすれば良いかを話し合っています。
ここ数年の間に恐ろしい病気に冒された牛が増え続け、
それを食べた人間もその病気にかかって死んでしまうのです。
病気は牛だけでなく、豚はもちろん鶏にまで発生しました。
画面に牛の顔がアップになりました。
そして次の場面は天井からつるされた牛肉です。
学者は顔をしかめ、チャンネルを変えましたが、
今度は悪いことにバ−ナ−で焼き殺される鶏が映りました。
学者の食欲は完全になくなってしまいました。
食事時にこのようなものを放送するテレビ局にも腹が立ちましたが、
それよりもいつまでも肉食に固執する人間に一番怒りを覚えました。
学者はベジタリアンだったのです。野菜しか食べません。
膝の上のウ−に学者は言いました。
病気になった牛の肉を改良する研究をするよりも、
肉を食べないですむ研究をするべきだと思わないかい?
ウ−は頭をちょっと横に傾けて学者の顔を見上げておりました。
学者は両手を上に延ばし、大きなあくびをしました。
もうすでに、ブ−とフ−は猫用の籠に入って寝ています。
学者はウ−を抱いてベットに入りました。
独りぼっちは学者も同じ、家にいるときはウ−といつも一緒です。
ところが、その夜から学者は悪夢に悩まされるようになりました。
寝付いてすぐ、誰かにじっと見られているような気がするのです。
それも一人ではないような・・・。
ブ−ン、ブ−ン、ブ−ンという低い音まで聞こえてきました。
まるで錆び付いた古い扇風機が回っているような音です。
「ママ−、怖いよう−。眠れなくなっちゃったよ−」
「まあ、それは大変、ごめんなさいね。でも、これは大切なお話なの。
今日はここで終わるけど、明日もまた続きを聞いてね」
ママはニコニコ笑ってボウヤの頭をなでながら、やさしい声で言いました。
「うん、わかった。明日も聞くよ。だけど、あんまり怖く言わないでね」
ママはコックリうなづいて、ボウヤとゆびきりげんまんをしました。
(三夜目のお話)
お話の続きは聞きたいけれど、ボウヤはちょっぴり不安です。
もっと怖い話になったらどうしよう、今度こそ本当に眠れなくなってしまいます。
ベットの中でドキドキしながらボウヤはママを待ちました。
学者が怖い夢を見るようになったというところから、ママの話が始まります。
学者が眠り始めると暗い闇の中からブ−ン、ブ−ン、ブ−ンという音が聞こえてきます。
それはお腹の底まで響いてくるような嫌な音でした。
しかも毎日少しづつ大きくなってきています。
学者は耳栓をして寝てみました。
でも、そんな物なんの役にもたちません。
朝になると学者の目の下に隈が出来ておりました。
通いの家政婦さんが来て、その顔を見てとても驚きました。
お医者様に診てもらったほうがいいと、しきりに勧めましたが学者は返事をしません。
突然洗面所に立て籠もり、中からカギを掛けてしまいました。
家政婦さんがドアをバンバン叩いて開けるように言いましたが返事をしません。
中ではカチャカチャという音がして、やがて苦しそうな唸り声が聞こえてきました。
家政婦さんは救急車を呼ぼうとしましたが、やっとドアが開きました。
でも、中から出て来た学者を見て家政婦さんは気絶するかと思うくらい叫びました。
学者の耳がありません。
耳があった辺りから赤黒い血がドクドクと流れて床は血だらけです。
タオルを取りに中へ駆け込んだ家政婦さんは、
洗面台の上にある、血溜りの中に落ちているカミソリと、
切り落とされた二つの耳を見てまた悲鳴をあげました。
「ママ−、学者は耳なくなっちゃったの?」
ボウヤは自分の耳までなくなる気がして、耳を両手で隠しながら言いました。
「いいえ、大丈夫。切った耳をもう一度くっつける手術をしたからね。
でも、一人で放っておくとまた切っちゃうかもしれないから入院することになったのよ」
ボウヤは不思議でした。動物のことを思いやるやさしい学者が、
どうして怖い夢を見るようになったのか。
「このお話には理由があるの。それはね、学者が何の学者だったか、なの」
「何の学者だったの?」
「彼は昆虫学者だったの。
アマゾンの奥深くに棲むめずらしい昆虫を捕ってきては標本にしていたの。
そしてその標本が壁にいっぱい飾ってあったのよ」
「あっ、パパと同じだ。何だパパのことだったの?じゃあパパも耳を切るのかなあ・・・
わぉっ!大変だ助けなきゃ」
「いいえ、これはお話よ。パパじゃないの。パパは耳を切らないわ」
「ふうん、そうなの。パパじゃないなら安心だけど、でも変だよこの人。
動物殺すの反対だったんでしょ、お肉もたべないし、
どうしてこんな酷いめにあったのかなあ。
それって、いい子にしていても怖いめにあうってことなのかなあ・・・嫌だなあ」
ママはちょっぴり悲しそうな顔をして首を横に振りました。
「ボウヤ、昆虫の標本どうやって作るか知ってる?」
「うん、パパのを見てたから。あっ、わかった虫を殺したからなんだね、
虫が怒ってるんだ」
ママは寂しそうに笑ってうなずきました。
ボウヤの家の中にはパパが作った昆虫標本がいっぱい飾られてありました。
お話の中の学者の家にもきっとたくさんの標本が飾られてあったに違いありません。
闇の中に光る目は、虫の体に月の光が反射していたとも考えられます。
ブ−ンという音は虫の羽音でしょう。
そしてそれは、多分本人にしか聞こえていなかったのだと思います。
学者はテレビで牛や鶏が殺されるシ−ンを見てから悪夢を見るようになりました。
つまりその時、学者の潜在意識下にあった、
殺した昆虫達への罪の意識に対するフラグがオンになったのです。
そして昆虫を殺す行為と、牛や鶏を殺す行為がシンクロしてしまい、
結果、自らに罰を下すエンディングを迎えてしまったのです。
ママが暗い顔をして黙っているので、ボウヤは心配になり何か言おうとしました。
その時
「しっ!静かに・・・」
ボウヤの口をママが押さえました。
たちまちボウヤの胸で心臓が早鐘を打ち始めます。
ザワザワと大勢の人の足音が近づいて来ました。
(二年前の事件)
午前十時。博物館が開館して、ドアの向こうで長い列を作って待っていた人達がゾロゾロと入って来た。
展示されているのはウイル博士が世界中から集めためずらしい昆虫と絵だ。
昆虫博士ウイルは画家としても有名だった。
色とりどりに光り輝くコガネムシはまるで宝石のよう、
大人の手のひらよりも大きい蝶は美しいブル−の羽を広げている。
標本も素晴らしいものだったが、大自然の中で生きている虫達の絵は、
見ている者が吸い込まれてしまう錯覚を覚えるほどの出来栄えだった。
博物館の広いフロア−がたちまち人でいっぱいになる。
そして、たくさんの絵の中で一枚だけ違う絵があった。
ベットの中で眠れない子供に、母親がお話を聞かせている絵だ。
その絵を見ている一人の男に、
随分と着古した灰色のトレンチコ−トを着たがっしりとした体躯の男が話しかけて来た。
「これはウイル氏の奥さんと息子さんですね。
とても家族を大切にしておられたことが伝わってきます」
「ええ、モリ−と息子のジョンです。ウイルは二人をとても愛していた・・・」
男は遠い目をして沈んだ声で答えた。
「失礼ですが、ウイル氏のご親族の方ですか」
「いいえ、でも私とウイルは仕事仲間であり、親友でした」
「ああ、そう言えば何度かあなたをお見掛けした記憶があります。
私はあの事件の担当になった市警のハリソンです」
ハリソンは胸ポケットから警察証を出して見せた。
「あぁ、警部でいらっしゃるんですか。私はウイルと同じ大学で助教授をしております
クリストファ−・ベインと言います。クリスと呼んでください」
クリスはウイルとおなじ四十才、ハリソンも同じくらいに見えた。
ただ警官という仕事柄なんだろうが、笑顔の中にも隙がない。
クリスの顔に警戒心が現れた。
ハリソン警部はクリスの顔を伺いながら話かけてくる。
「二年前のクリスマスの夜でした。
私の出くわした事件の中でもそうそう例のない酷い現場でしたよ。
あんな小さな子供の喉まで切り裂くなんて人間のすることではありません」
クリスの顔色が悪くなったのに気がついたハリソンは
「あぁ、嫌な事を思い出させてしまいましたね。
すみませんこういう場所で言うべき言葉じゃなかった。あやまります」
そう言って頭を下げた。
「いえ、本当に許せないことです。ジョンは可愛い子供でした。
私はよくジョンと遊んでやりました。 モリ−も・・・やさしくて・・・賢い・・・」
クリスは言葉を詰まらせ、親指と人差し指で目を押さえ下を向いた。
ハリソンは、親友一家を襲った不幸にむせび泣くクリスの肩を軽く叩き慰めた。
「クリスさん・・・私はなんとしてでも犯人を挙げてみせます。
ウイル氏にはご親戚がいらっしゃらないんでしたね。
奥さんのご両親も病気で亡くなっています。
ウイル氏は本当に一人になってしまったわけです。
あなただけが頼りなんですから、どうか力になってあげてください。
ところでウイル氏の容体はいかがですか」
「モリ−とジョンが亡くなってから彼一人になりましたからね、
私もよく顔を見に行ってたんです。
通いですが家政婦さんも来てくれていましたし、
猫を三匹飼って精神的にもだいぶおちついてきたと思っていたんですが、
耳を自分で切り落とすなんて思いもしませんでした。
家政婦さんが来ている時でよかったです。
もし誰もいない時だったら死んでいたところです。
猫ではどうにもなりませんからね」
「そうですね。それで今はどなたがウイル氏の財産を管理なさっているのですか」
「私です。財産といってもこの標本類と家の面倒をみればいいわけですから。
ウイルは入院していますが、今にきっと良くなって退院してきます。
その時に一緒にいてやりたいと思いますので今日からウイルの家に住む予定です。
彼が生きている間は決して売却させません。彼にとって思い出のある家ですからね」
どこまでも友達を思うクリスの言葉にハリソンは胸が熱くなった。
堅い握手をして、まだ館内を見て回るというハリソンと別れ、
クリスは降り出した雨の中傘もささずウイルの家に向かった。
彼の荷物がもう届いている頃だ。
荷物は予定通り届いていた。
と言っても一人暮らしだった彼にそれほどの荷物はない。
洋服と下着類、あとはちょっとした小物くらいだ。
生活に必要なものはすべてこの家にそろっている。
リビングに行くとソファ−にウ−が寝ていた。
彼が横に座っても知らんぷりしている。
彼は何度もこの家を訪れていたから猫達とも顔見知りだ。
「おいっ、ウ−。今日から俺がご主人様だ、よろしく頼むよ。
ウイルは・・・まあ帰って来れないだろうよ。なんせ頭がイカレちまったからな」
クリスはウ−に向かってしゃべり始めた。
ウ−は耳を立てているが目は閉じている。
「あいつが悪いんだ。俺もモリ−のことが好きだった。
いや、俺のほうが最初に声を掛けたんだ。
それなのにあいつが横取りしやがった。
モリ−は大学の側にある食堂でウエ−トレスをしていたんだ。
ポニ−テ−ルのよく似合う可愛い娘だった・・・
俺を選んどけばあんな死に方しなくてすんだんだ」
クリスは一瞬暗い顔をして下を向いたが、
やがて肩をふるわせ痙攣を始め、
ソファにふん反りゲラゲラと笑い始めた。
「あいつモリ−と結婚したとたん運が向いて新種のカブト虫の交配に成功して
博士号まで取りやがったんだ。
俺はしがない助教授で嫁の来てもありゃしない。
やってられんよまったく。
モリ−は殺すつもりはなかったんだ。
あいつの研究デ−タを盗んで学会で恥をかかせてやりたくてよ、
すんでのところでモリ−に見つかった。
するとあろうことかこの俺に向かってドロボ−とわめきやがった!
頭にきて何が何だかわからなかったんだが、
気がついたらモリ−の首をナイフで切っていた。
モリ−はパックリ開いた傷口から血を吹き上げてのたうち回っていた。
そしてそこへガキが来た。
もうやるっきゃないだろ、同じように首をかき切って母子共々
変質者に殺されましたって寸法よ。
うまい具合にあいつが第一発見者。
とんだクリスマスになりましたってわけよ。
二年たってとうとう発狂しやがった。
自分の耳をチョン切って病院行き!泣けっちゃうね」
クリスの笑いは止まらなかった。
その夜クリスはベットの中で自分の未来を思ってほくそ笑みながら眠りに落ちた。
この家もウイルのコレクションも、何もかもが自分の物になる。
しかし彼は確実に恐怖の世界にはまりこんでいる自分に気がつかなかった。
今日博物館でハリソン警部に話しかけられた時に
恐怖のフラグがオンになっているのだ。
自分が犯した殺人を見破られたのではないかと言う不安が、
クリスの寝ている部屋の壁にヒトの目になって現れた。
二つの目は四つの目になり、
ぶくぶくと泡がわき出て来るように瞬く間に四方の壁ぎっしりと目で埋まった。
ひとつひとつの目が勝手に瞬きをする。
そしてその振動で空気が音を出す。
クリスは目を覚ました。
部屋の中は湿った沼の澱んだ臭いがしていた。
クリスが壁いっぱいの目に気づくのに長い時間はいらなかった。
数えられないほどの目が不規則にせわしく瞬きを繰り返す、
クリスは全身の毛がぞわっと逆立つのを感じた。
心臓が大きく脈打ち始める。次の瞬間クリスの視界を風が切る。
喉のあたりに衝撃を感じ、一気に冷たい空気が気管に流れ込み、
入れ違いに生暖かい液体が溢れ出た。
恐ろしいほど早く、クリスの手足から感覚が無くなってゆく。
喉から噴水のように血を噴き上げて、床に落ちたクリスが最後に見たものは、
鋭い爪に付いた血糊を舌で舐めているウ−の姿だった。
(闇の中の住人)
夕方四時をもって博物館は閉館した。
ドアに施錠する前に、最後の客が残ってないか警備員が巡回をしている。
この博物館にウイル博士の標本を展示してから、誰もが夜勤の警備を嫌がった。
それでも、断ればクビになる。暗黙のうちに巡回は夕方のこの一度だけになった。
警備員はモリ−とジョンの絵の前に来ると、溜め息を一つついてつぶやいた。
「また聞こえるんだろうな・・・話し声が」
警備員はブルッと身震いを一つして去って行った。
彼の足音と共に、天井に付いている蛍光灯が一本づつ消されていく。
やがてフロア−の明かりがすべて消え、完璧な闇が訪れた。
どのくらい時間が経ったのだろう、モリ−とジョンの絵の中から小さな声がした。
「ママ・・・今夜もお話聞かせてくれるのでしょ・・・・」
END
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