名無しの男

著:樋口裕子

その朝男は日溜の中、朽ちかけたベンチに座り足にゲ−トルを巻いていた。

私はその男を知っていた。しかし、どうしても名前が思い出せないのだ。

いや、もともと名前なんて無かったのかもしれない。

 名無しの男は、ただ黙々と灰色に変色したゲ−トルを巻いている。

巻き終わった足を下ろした瞬間、白い砂塵が舞い上がり陽の光にそれが反射した。

キラキラと輝く砂と光のイリュ−ジョンに、魅せられた男の手の動きが止まる。

その顔は少年のような驚きに満ちていた。

 私だけが知っている。

名無しの男の肉体は、これから数時間後にバラバラに砕け散るのだ。

 名無しの男は兵士だった。

 彼はダイナマイトを抱いて、ジリジリと乾いた土の上を這っていた。

敵の巣に爆弾を仕掛けて逃げる。決してこれが初めてではなかった。

仕掛けてからどれくらいで爆発するかもわかっている。

しかしその時信じられないことが起こった。

 走っても走っても土嚢に辿り着かない。

 間に合わない!

 恐ろしいほどの焦りが、真っ赤に焼けた鉄の杭になり心臓を貫いた。

 やがて肉体と共に飛び散った意識が戻り、彼は真っ白な発光体の中に浮いていた。

 そこは彼以外の固体が存在しない世界であり、何の音もない。

空間に横たわったまま名無しの男は、自分の死を悟った。


 遠い昔、私は名無しの男だった。

最近、記憶が頻繁にシンクロするようになった。

 名無しの男の記憶は、

爆弾にふっ飛ばされて死んだときに消えてしまわなくてはならなかった。

それが、消えるどころか急速に甦りつつある。

 何故だ!名無しの男、何故お前が今ごろ現れる。

 爆弾と心中した私を不憫に思った神様が、

せっかく平和な時代と平凡な人生を与えてくださったというのに。

 私は少女から大人へと、それなりに美しい時代を駆け抜けて

平凡だけが取り柄のごく普通の男性と結婚した。

二人めの子供が生まれた年に父が逝き、翌年母が逝った。

 成人していく子供たち、老いていく私と夫。

人生は入れかわり立ちかわり月日と共に過ぎていく。

あきらかに、爆弾を抱えて這いずり回るより幸せな人生。

名無しの男が幸せな私の夢に暗い影を落とし始める。

 名無しの男は遠い過去へと続く扉を開けた。

そこから先は轟音と、血と火薬と砂埃の臭いが立ち込めている。

 敵を狙え!

鋭い声に、土嚢の下横一列に伏せた兵士が一斉に銃を構える。

たちまち激しい銃撃戦が始まり自分の隣にいた男の動きが止まる。

左手で銃を持ちながらそいつの肩を揺すると、ズルリと身体が傾いた。

男の顔が無い。顔があったあたりにはただ赤黒い血の塊が溜まっているだけだ。


 ライオンのような叫び声をあげて目が覚めた。

 全身に汗をびっしりとかいている。

ここはどこだ・・・

 辺りを見回すと隣で夫が引きつったような顔をして私を見つめていた。


 先生、妻の様子がおかしいんです。

精神科の病院を訪れた夫が医師の前で言いにくそうに切り出した。

「ご家族は何人ですか、子供さんは?」

医師はカルテに書き込み始める。

「子供はおりません。生まれてすぐ死んだんです。

しかし妻は子供が死んだとは思っていないんです。

それどころか妻の頭の中ではもう一人の子供が生まれていて、

二人とも全寮制の学校に入っていて今は一緒じゃないとか・・・

いくら言い聞かせてもだめなんです」

 医師はペンを置き、相談者に向き直り話しを聞く態勢に入った。

子供が死んだという現実を20年も受け入れられないのも異常だが、

それとは別に妻がだんだん別人になっていくような気がするのだと言う。

普通に生活は出来るのだが、時々遠い目をしている。話しかけても反応がない。

まるで身体だけを残して心がどこかへ行ってしまっているような。

何か悩み事があるのかと聞いても、あら、どうして?と怪訝な顔をする。

そのくせ夢にまでうなされて、どんな悪夢かと思うほど恐ろしい叫び声をあげるという。

 食欲はどうですかと医師が聞くと、食欲はものすごくあると答えた。

 もともとは食も細く、肉よりは野菜を好んで食べていたのに

最近は非常に肉食を好むようになってきたと不思議そうに言う。

 サンタクロ−スが白い服を着たように太った医師は、笑みを浮かべ診断をくだした。

「いない子供をいるように思っていらっしゃるということですが、

それは子供を死なせたという自己の呵責から生まれた幻覚でしょうな。

時々ぼ−っとなさったり夢にうなされるのもそれに関係しているかもしれませんが

奥さんは今45歳ですから更年期にはいっているとも考えられます。

食欲があるのはおおいに結構です。

まあ、さしあたって薬とかの治療も必要ないと思われます。

日常生活は普通にお出来になられるんですから。

それより出来るだけ一緒にいてあげてください。

どうですか、今からでもお子さんを作られたら」

そんな・・・私らはもう年ですから、と夫は笑いながら手を振った。

「とんでもない、今は50歳でも出産なさいますよ。

まあ、それくらい前向きな考えが奥さんの救いになるということです。

現実が楽しけりゃ、空想なんて馬鹿らしいこと考えませんからね。

心のささえになってあげてください」

 医師の言葉に夫はうなずき、帰り支度を始めながら一番気になっていることを言った。

「でもね、先生。私は妻が男に見えるときがあるんですよ」

「そんなこと心配ないですよ、私も時々自分の妻が男に見えます」

医師は大きく腹をゆらして笑った。

「ありがとうございました。安心しました」

そう言って夫は帰っていった。



 私は今高く生い茂った草の間に身を潜め、敵の様子をうかがっていた。

 息を殺し瞬きもせず目だけでそいつの姿を追いながら、

銃口をわずかに上げて撃つ態勢に入った。

 今だ!撃て!

耳の近くで声がする。私の指が銃爪を引く。

銃口から出た弾丸がスロ−モ−ションの映像を見ているように

真っ直ぐ一人の男の頭めがけて進んでゆく。

しかし地面に根をおろした木のように男は動かない。

やがて男の額に弾丸がめり込んで、頭蓋に穴を穿つ。

ゆっくりと倒れていく

男の額からほとばしり出る 血、血、血

私の意識が遠のいてゆく。


 家に帰った夫は、リビングの様子が変わっているのに驚いた。

部屋の真ん中にあった応接4点セットが不自然な形をして右横の壁に寄せられている。

机を中心にして大小のソファ−がまるでシェルタ−のように積み重ねてあるのだ。

しかも机の下には妻が入っており、ソファ−の隙間から青白い顔を覗かせている。

「動くな!撃つぞ」

妻は、低い声で彼を威嚇した。

「マ−サ、マーサ、しっかりしてくれ。箒なんて握りしめて何をしているんだ」

ギョッとした夫は一瞬腰を引いたが、気を取り直しソファ−を動かして

妻を机の下から引っ張り出した。

 本当に更年期のせいなのだろうかと彼は思った。

ひょっとして妻は脳の病気なのでは、と不安な思いがよぎる。

「お帰りなさい」

驚いたことにもう普段の妻に戻っている。

 このソファ−はいったいどうしたんだい?と彼は出来るだけやさしい声で聞いた。

「あら、お掃除していたのよソファ−を除けて床を掃いていたの」

「さっき僕を見て、撃つぞって言ったね」

「フフフ・・・冗談よあなた。でもねえ、ほらこうしているとまるで砦みたいだと思わない?」

 妻は戦争ごっこをしていたと言う。

45歳の女がたった一人で戦争ごっこ!

やはり更年期なんだ、だからこんな子供じみたことをして

溜まったストレスを発散させようとしているのだ。

夫は妻を不憫に思った。

 夫が不信感を抱いている。それはとてもまずいことだ。

 昔の記憶が残っている為、時々名無しの男になって地獄のような戦場にトリップする。

このままでは精神病院に入れられてしまうかもしれない。

 出て来るな!名無しの男、お前はもう死んだのだ。

 どうすればもう名無しの男が出て来ないようになるか考えた。

あと二週間でクリスマスだ、休暇をもらった子供たちが学校から帰ってくる。

ツリ−の飾り付けをしなくちゃならないし、プレゼントも買わないといけない。

とびきり美味しい七面鳥とミンスパイも焼かねばならない。

夫は子供たちと私にプレゼントをくれる。

名無しの男になっている暇なんてない、私は忙しいのだ。

 悩んだ末に私は決心した。

今度名無しの男になった時、もう一度死んでみよう。

 死ねばきっともう現れない。

あの爆弾でふっ飛ばされた瞬間を思い出すんだ。

 その夜私はベットの中で一生懸命あの時の状況を思い出そうとした。

 あの日、美しい砂と光りのイリュ−ジョンに心を奪われた。

 私は爆弾を抱え、じりじりと乾いた地面を這っていた。

 
 敵の巣が目前にある。

 私は音もなく忍びより、首尾よく起爆スイッチをONにして離れた。

そして走る、走る、走る、案の定いくら走っても走っても目指す土嚢に着かない。

 来る!そう思った瞬間私の身体は宙に浮いた。

いつの間にか発光体の中に浮かんでいる。

 これでいいのだ、私は死んだ。

目覚めたらマ−サの自分がいる。


 「気がついたみたいね」

私の耳元で女の声がした。

ここはどこかと聞こうとしたら、いきなり耳がキ−ンと鳴った。

「だめよ、まだ喋っちゃ。あなた一か月も意識がもどらなかったのよ」

一か月も・・・と私は思った。たちまち私の頭の中で疑問が渦を巻く。

私は死ななかったのか、じゃああの別の人生はいったいなんだったのだろう。

私の夫は・・・子供たちは・・・胸が急に熱くなり涙が溢れ出た。

看護婦はタオルで私の涙を拭きながら、私が瀕死の重傷だったと説明しだした。

命は神様がくださったものだからね、生きているっていうことは、生きなさいということなのよ。

あなたは国の為に戦って手足を失ったの、これからは・・・

ちょっと待ってくれ、手足を失った?

私は手を動かしてみた。微かだが動いた感覚があった。

足の指を動かしてみた。足も動いた感覚があった。

「冗談だろう、ちゃんと動くぞ」

私は怒りを込めて言った。

「それは感じるだけなの、実際にはもう無いんだけど感覚を脳が覚えているのよ」

看護婦は手鏡を持ってきて私の身体を映して見せた。

包帯にぐるぐる巻きにされた芋虫のような胴体が転がっていた。

 私は爆弾でふっ飛ばされて死んだのではなく、仮死状態になっていたのだ。

 ・・・嘘だろうと私は思った。

一度死んで女性に生まれ変わり、平凡で幸せな人生を送ったのではなかったのか。

「もうすぐクリスマスなんだ、子供たちが帰ってくるんだ、夢だと言ってくれ!」

「しっかりして、今は四月よ。これは現実なの、あなた夢を見ていたのね」

 看護婦の言葉が私を絶望の淵にたたき落とした。

 授かった命だ、頑張って生きろと看護婦は言うけれど、

四肢を失いこれからどうやって生きていけばいいのだろう。

これは夢だ、思い出さなければ帰れなくなる。

私は泣きながら、夫のことを考え、子供たちのことを考えた。

 子供たちの名前は・・・いや、子供は男?・・・女?・・・

 何ひとつ思い出せなかった・・・


「朝目が覚めたら隣で寝ていた妻が死んでいたんです」

夫は両肩を落とし、駆けつけた刑事にそう話した。

「最近様子がおかしいので精神科の医師に相談に行ったんです。

 更年期だと言われましてね、心配いらないと・・・・」

夫はショックで後の言葉が続かなかった。

検察官が妻の身体を調べ、刑事に耳打ちした。

「一応不審死になりますので司法解剖させて頂きますが、よろしいですか」

夫は深くソファ−に腰を落としたまま黙ってうなづいた。

END

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