帰りましょう、家族のもとに

著:樋口裕子

・・・十月十一日 午前四時・・・

 外はまだ夜明けの準備を始めたばかりで、暗かった。

砂部良二は妻を起こさないように、そっとベットから抜け出し寝室を後にする。

そして廊下をはさんで向かい側にある自分の部屋に入り、

二十七年間繰り返してきたようにパシャマを脱ぎ、背広に着替えようとした。

ハンガ−に掛かった上着の下に、カッタ−シャツも一緒に掛けられてある。

 いつもなら、クリ−ニングされた真っ白なシャツを、ビニ−ルの袋から出して着る。

 だが、この一か月は、彼が言わない限り新しい物に取り替えられることはなかった。

 袖口と襟回りが黒く汚れている。

たちまち胸が悲しみで破裂しそうになり、砂部の目から涙がこぼれた。

 新しい物を着て家を出たい。

今日は家族の為に行く、特別な日なのだから。

 彼はクロ−ゼットの中をかき回し、

やっと一枚ビニ−ルに入ったカッタ−シャツを見つけて着替えた。

 クロ−ゼットの扉に付いた鏡を見ながら、

丁寧にネクタイをしめ、親指を滑らせ背広の襟を正したら、

この一か月の出来事がすべて夢のような気がする。

 妻と息子に宛て書いた手紙を机の上に置き、薄い旅行鞄を持った。

 彼の部屋の隣は息子の部屋だが、人がいる気配がない。

昨日も帰って来なかったようだ。

 砂部は溜め息をひとつついて、家を出た。

家の前は緩やかな坂道で、下った所にバス亭がある。

始発のバスを待ちながら、彼は9年住んだマイホ−ムを振返る。

「幸せになれよ、俺がしてやれる最後の・・・」

後は言葉にならなかった。

・・・十月十一日 午前十一時二十五分・・・

 富士急川口湖駅下車。

バスで富岳風穴まで行き、風穴見学のチケットを買う。

東海自然歩道ハイキングコ−スを200メ−トル歩くとT字路に突き当たる。

 そこには立て看板があり、

命は親から頂いた大切なものだから、自殺はするな

というような忠告が書いてあった。

 しかし、そんなもの、自殺をしようとする者にはなんの役にも立たない。

 T字路の右は遊歩道、左は荒れ果てた寂しい道。

砂部はなんの躊躇もなく左を向いた。

 道の入り口には汚いビニ−ルテ−プがちぎれて散乱している。

きっとこれ以上奥へは行くなという為に張られた物だったのだろう。

 枯れ枝や葉っぱを踏んで入って行くと、薬の空き瓶、ボロボロになった靴下、

濡れてふやけた黒い手帳のような物が落ちていて、

あきらかに自殺の現場であることを物語っていた。

 砂部は一時間ほど歩き回った後、

座り心地の良さそうな太い木の根元を見つけ、腰を下ろす。

 しばらくは風景の中に溶け込んで、自然を感じていたが、

やがて、鞄の中から白い錠剤がぎっしり入った瓶と、ウイスキ−の小瓶を取り出した。

持ってきた薬は睡眠薬のハルシオンで、

かかりつけの医院でもらっていたものを飲まずにためていた。

 百錠入っている。

これをウイスキ−で少しづつ飲めば必ず死ぬだろうという確信があった。

 十錠ほどを口に入れ噛み砕くと苦みが口中に広がった。

その苦みを消すようにウイスキ−を一度口の中に溜めて飲み込む。

何回かそんなことを繰り返しているうちに意識が朦朧としてきた。

 生と死の狭間で、砂部は自分の一生を観ていた。


 父の太い腕に抱かれて夜空に上がる花火を見た。

側には白地に朝顔の柄の浴衣を着た母がいて、

うちわで蚊を祓ってくれている。

ド−ンと打ち上がる花火の音に驚いて、彼は父の胸に顔を埋める。

 次に見たのは、幼い頃彼が住んでいたあたり、

ギラギラと太陽が照りつける暑い昼間のワンシ−ン・・・

 幼い彼が赤いボ−ルを追いかけて路地から走り出る。

それを見た母が慌てて後を追う。

 このあと起こる悲劇を砂部は知っていた。

やめてくれ・・・行くな、お母さん、お母さん!

身をよじり必死に声をあげても母には届かない。

 前から、大きなトラックがゆっくり近づいて来る。

 やめろ・・・やめてくれ・・・!

 血を吐かんばかりに叫ぶ砂部の目から涙が溢れ出る。

 なにもかもがスロ−モ−ションで進んで行く。

 トラックの前に飛び出した彼を抱き地面を転がる母、

母は彼を草むらめがけて放り投げる。

 そして後ろから来た別の車が、ゆっくり母の上を通過して行く。

 悲鳴すらもあげられず母は死んでいった。

 彼が小学校に上がった時、父は小さな定食屋を始めた。

再婚もせずに、男手一つで彼を育ててくれた父なのに、

母のいない寂しさが、彼の性根を腐らせる。

小汚ない店で、安い定食を売る父を軽蔑していた。

 校舎の陰で、隠れて煙草を吸う中学時代が見える。

悪い仲間と付き合うようになり、気がついたら不良になっていた。

 万引き喝あげで捕まり、父が警察に呼び出される。

少年課の刑事の前で、父は何度も頭を下げてあやまった。

父の丸い背中を見ていると泣けてくる。

「もう馬鹿なことをするなよ」

刑事が彼の肩を軽く叩いた。

 やっと許してもらい、外に出たらもう日が暮れていて、

街灯の下、父と二人長い影を並べて歩いた。

ずっと何も言わなかった父が初めて口をひらく。

「母さんが死んだのはお前のせいじゃない。

  お前を助けることが出来て喜んでると思う。

  だけど、今のお前の姿を母さんが見たら泣くぞ。

  しゃきっと生きて、母さんを安心させてやろう」

 父の目が涙で光っていた。

 それから彼は、生まれ変わったように真面目になり、

一生懸命勉強をして大学まで出た。

そして就職が決まった夜、父と二人酒を飲んだ。

 酔っ払って箸で茶碗を叩いている父の顔は、本当に嬉しそうだった。


 どのくらい眠ったのだろうか・・・身体が何やらホカホカと暖かい。

目を覚ました砂部の前に、パチパチと燃える焚き火があった。

その向こう側には見知らぬ男と女が座っている。

 彼らが誰で、何故ここにいるのかと言う疑問より、

今は自分が死ねなかったと言うことのほうが重大だった。

 死ななかった・・・

 おそらく薬を全部飲む前に眠ってしまったに違いない。

薬瓶はどこだろうと手探りで探すと、すぐ近くでころがっていた。

 なかみはほとんど減っていない。

やっぱり途中で眠ってしまったのだと砂部は苦笑した。

 そしてようやく自分を見つめている視線に気がついた。

目の前に座っている初老の男が、おだやかな目で砂部に話しかけてきた。

「勝手にここで焚き火をしてしまって申し訳ない。

 でもあんまり気持ち良さそうに眠ってらっしゃるので、

 つい風邪を引くのではとおせっかいをしてしまいました。

 ありゃりゃ、これはおかしいですね風邪を心配するなんて」

「あははは・・・確かにおかしいです」

 思わず砂部も笑ってしまう。

「ここは自殺の名所、普通の人は来やしません。

 寝ていても、風邪の心配はないですよねえ・・・

 私は宇山治一と申します。

 こんな所で会ったのも何かの御縁でしょう、

 よろしくお願いします」

 宇山と名乗った男は笑いながら頭を下げた。

 隣の方は奥さんでいらっしゃいますかと砂部が聞くと、

「いえ、私も偶然お二人の所に来てしまった自殺志願者の一人です。

 平山英子と申します。どうぞよろしくお願いします」

と本人が言った。

 二人に自己紹介をされてしまっては、自分も言わなくてはならない。

「初めまして、私は砂部良二と申します。こちらこそよろしくお願いします」

と言って頭を下げた。

 宇山は砂部と同じくらいの身長みたいだが、痩せぎみの砂部と違い、

がっしりとした体躯をして貫禄があった。

声にも人を引きつけるものがある。

 平山と言う女性の方は、年の頃は砂部と同じか少し下くらいで、

おとなしい真面目な主婦といった感じだった。
 

 どのくらいそうしていただろうか、

三人はただ黙ってパチパチと焚き火が音を出して燃えているのを見つめていた。

 砂部は急に何か話しをしたくなり、宇山と英子に声をかけた。

「あの・・良かったら何か話しをしませんか。

 だって三人とも、同じ目的でここにいるんでしょう?

 私はあなた方に、身の上話を聞いて頂きたいと思っています。

 誰にも何も言わないで死んでしまうのが心残りなんですよ。

 今更話しても仕方ないんですがね」

砂部は、はにかむように笑った。

 宇山もニコニコと笑っている。

「私もそう思っていました。お互いの身の上話しをしましょうよ」

英子が嬉しそうに言う。

「それじゃあ、砂部さんからどうぞお願いします」

宇山が言うと、英子も身をのりだし聞く態勢に入った。

「私は一か月前に、二十七年間勤めた会社からリストラされました。

 四十の時にマイホ−ムを買いましてね、三十年のロ−ンです。

 退職金の一部を返済にあてようと思っていたのに、

 退職金どころか、本当に僅かな金でクビになりました。

 職安にも通いましたが、五十近くなってはろくな仕事がありません。

 あっても、ロ−ンを払っていくだけの給料がもらえなかったりで・・・

 妻は専業主婦で今まで一度も勤めたことのない女です。

 そのうえ更年期で病気がちな為、とても外に出て働くなどようしません。

 高校生の息子もいるのですが、お恥ずかしいことに学校もろくに行かず、

 ほとんど家に帰って来ません。

 貯金も減っていくばかりで妻のイライラは頂点に達していました。

 昨日とうとう大喧嘩になりましてね、

 売り言葉に買い言葉だったとはわかっているんですが、

 自殺して家のロ−ンをチャラにしてくれと言われたんです。

 このままでは一家心中するしかないと泣かれましてね、

 その時決心したんですよ。

 必ず幸せにすると誓って結婚したんですからね。

 私が死ねば、団信保険が下りてロ−ンがなくなる。

 それ以外に生命保険も下りますから、

 妻一人くらいそれで生きていけるだろうと・・・ね」

「しかし・・・かと言って何も死ななくても良いのでは・・・

 家を売って引っ越すという手もありますからね」

宇山が言った。

「いえ、本当はもう何もかもに疲れたんですよ。」

砂部は寂しそうに笑い、

宇山さん、今度はあなたの番ですよと話を変えた。

そうですか・・と言いながらも、まだ何かこだわっているような感じだったが、

宇山は自分のことを話しだした。

「私の生まれは長野でしてね、

 中学を出てすぐ東京に出て、寿司屋の見習い奉公をしました。

 真面目に一生懸命働いたことが認められて、

 二十五になった時自分の店を持たせてもらったんです。

 一皿二個のにぎり寿司を百円で売りました。回転寿司が出る前です。

 店は大繁盛、チェ−ン店をいくつも持つようにまでなりましてね。

 結婚もしました。男ばかり三人も生まれて、そりゃもう順風満帆のうちに

 とうとう外食産業の会社を作りました。

 私は社長になって、息子達が重役です。

 みんなそれぞれ所帯を持って、孫が六人出来ました。

 私はもう寿司をにぎらなくてもよくなりましたが、

 働かないからボケが早く来たのでしょうねえ・・・

 物忘れが激しくなって、今したことすらわからなくなったのです。

 病院で精密検査してもらった結果、アルツハイマ−脳症が見つかりましてね、

 徐々に進行していって、今に何もかもを忘れてしまうだろうと言われました。

 死に値する宣告です。

 私が子供の時、祖父がちょうどそんな病気になりましてね、

 それがどんなに家族に迷惑をかけるか知っているんですよ。

 私は一代でやるべきことをやりました。もう思い残すことはありません。

 自分が自分であるうちに死んでしまおうと決心したんですよ」

 宇山は満足そうに両手を腹の上に組んで目を閉じた。


「アルツハイマ−っておっしゃいましたが、

 よく覚えていらっしゃるじゃないですか。

 言葉もしっかりなさっているし、誤診ではありませんか」

 英子が、信じられないといった顔で言った。

宇山は片目だけ開けて、

いや・・・多分誤診じゃないと思いますと言い、また目を閉じた。

 誤診であろうが、なかろうが、宇山は自殺を決意してここにいる。

彼を自殺にまで追い詰めたものが他にあったとしても、

彼がそれを話したくないのなら、それでいいのだと砂部は思った。

「次は平山さんですよ、嫌でなかったら話してくださいませんか」

話題を変えようと砂部はわざと明るく英子に言う。

砂部に促されて英子は自分が何故ここに来たのかを話しだした。


「それは長い介護でした。

 私の母が病気で亡くなったので、独りになった父を引き取ったのが始まりです。

 私は認知症というものが、どんなものかまったく知らなかった。

 よくテレビなどで、寝たきりのお年寄りを介護している場面がありますが、

 寝たきりの介護はまだ楽なのです。

 歩ける認知症の父を介護するのは大変で、私は精も魂も尽き果てました。

 知らないうちに神経を病んでしまい、安定剤なしでは眠れなくなっていました。

 行動範囲が広くなると、人に迷惑をかける範囲も広くなります。

 どんな迷惑をかけるのかは言いたくありません。

 警察に何度かお世話になりました。

 認知症と言う病名がなければ、ただの犯罪者です。

 夫に相談しても、私の実父だから取り合ってくれません。

 そりゃそうですね、どんなに辛くても実の親子ですから・・・

 でも、父だからこそ我慢出来ない情けない思いに苦しんだんです。

 誰もわかってくれなかった。

 私は役所の福祉課に何度も足を運び、

 このままでは父と心中するかも知れないと泣きながら訴えました。

 特別養護老人ホ−ムに入れてほしかったんです。

 そこは、父みたいな認知症の老人が沢山入所待ちしていて、

 なかなかすぐには入れません。

 それが私の必死の訴えが認められて、すぐに入所出来ることになりました。

 でも開放された喜びを感じたのは束の間で、

 私は父を施設に放り込んだという後悔に責め苛まれだしたのです。

 父も面会に行く度に、帰りたいと訴えます。そして帰れないとわかると、

 今度は、「わしは娘に捨てられた」と言うんです。

 連れて帰ればまた地獄のような苦しみが待っているだけで、

 私の足は自然と施設から遠のき、面会にもだんだん行かなくなりました。

 そして今年の始め、父は風邪をこじらせてあっけなく他界してしまいました。

 知らせを受けて搬送された病院に駆けつけると・・・もう、

 父の・・・死にめに・・・会えませんでした」

英子の目から涙が溢れ出て、膝に顔を埋めて黙ってしまった。

宇山も砂部も、英子に泣かれてうろたえてしまい、言葉を失う。

救いのない暗いム−ドにつつまれて、

三人はまた無言で焚き火を見つめていたが、

宇山が英子に話しかけた。

「平山さん、旦那さんとか娘さんに自分の苦しみを話さなかったの?」

「話してもまともに聞いてくれませんでした」

英子は寂しそうに首を振る。

「話すんですよ、自分がどれほど苦しんでいるか訴えるんです。

 きっとわかってもらえますよ、

 苦しみを分かち合うのが夫婦じゃありませんか。

 娘さんもそうです、お母さんがこんなに苦しんでるなんて、

 知らないかもしれませんよ」

と砂部も膝を乗り出して言う。

「平山さん、こんなこと言うのはル−ル違反かもしれませんが・・・

 あなた家に帰られたらどうですか?

 あなたがいなくなって、今頃大騒ぎになっていますよ。

 ここは生きる希望が無くなった者が来る場所です。

 私にはあなたが死ななければならない理由が無いように思います」

宇山がそう言うと砂部も、うんうんと頷いた。

英子は迷っていた。宇山が言うように、

自分がいなくなって大騒ぎしている夫と娘が目に浮かぶ。

急に何かひらめいたのか宇山が明るい顔で砂部に言う。

「砂部さん、あなたは会社からリストラされたんですよね、

 私は会社を経営しています。私があなたを雇えばいいのではないでしょうか。

 私はアルツハイマ−が進行して、いずれ何もかも忘れてしまいますが

 今ならまだ、あなたを雇うことが出来ます。一度下界に戻り、あなたを雇い、

 それからまたここに来ればいいんです」

「宇山さん、本当ですか、そうして頂ければ私は死ななくてもすみます。

 私を雇って頂いたら、あなたの介護は一生私がやらせて頂きます。

 あなたもどうか死なないでください」

 誰も好きこのんで死にやしない。砂部は宇山の手をにぎり泣いていた。


「それじゃあ、砂部さんに平山さん・・・帰りましょう!家族のもとに」


・・・十月十一日 午前九時・・・

 砂部安子は隣のベットに夫がいないことに気がついた。

 昨夜の喧嘩がよみがえる。

 リストラは何も夫のせいではないと頭ではわかっていても、

結婚してからこのかた、専業主婦として安穏と暮らしてきたのに、

いきなり収入が無いという現実なんて受け入れられるはずもない。

それでなくても、一人息子の一郎が反抗期でノイロ−ゼ気味だった。

でも、だからと言って夫に向かって「死んで」はないだろう。

そのことについては安子も深く反省している。

 パシャマの上にガウンをはおり、廊下に出て、夫の部屋をノックする。

何の返事もないのでドアをそっと開けてみると、

クロ−ゼットが半開きになっていて、あきらかにかき回した後があった。

 床にはカッタ−シャツが脱ぎ捨てられている。

どうせ着ていく所もないのだからと、クリ−ニングにも出していなかった。

夫は自分で新しい物を探して着て行ったのだと思ったら、

何となく気分が悪い。

私が悪いんじゃないからね、と安子はつぶやく。

前髪をかき上げながら部屋を見回したら、机の上に封筒があるのに気がついた。

中を見ると、安子と一郎に宛てた夫からの手紙だ。

 読みだした安子の顔が一瞬にしてこわばる。


『 安子、君の言う通りだ。僕が死ねばすべて解決する。

 僕には君と一郎を幸せにする義務があった。

 生活費を稼いで来られないのなら、もう死ぬしかない。

 僕は今から自殺の名所と言われる富士の樹海に行くことにする。

 何故場所を教えるのかと言うと、僕が死んだ証明をしないと保険が下りない。

 君がこの手紙を見てすぐに警察に届けたとしても、発見される頃には

 必ず死んでいるから安心しろ。

 死亡を確認したらすぐに保険会社に電話しなさい。 

 一郎、お前が何を考えているのかお父さんにはわからない。

 お父さんも昔不良の道に走って、五年前に死んだお爺ちゃんを悲しませた。

 お父さんは、本当はお爺ちゃんのことが大好きで、

 かまってほしかったから、ぐれていたんだ。

 一郎、僕はお前にとって良い父親じゃなかったんだな、

 仕事に夢中でお前と向き合って話し合うことが出来なかった。

 一郎より大事にしていた仕事に、お父さんは捨てられた。

 自業自得だな!

 お父さんはお前とお母さんに、この命をあげるから、

 どうか、もう許しておくれ。

 一郎、真面目に生きて、お母さんを幸せにしてやってくれ。 

 最後に・・・

 安子、一郎、僕はお前達のことを永遠に大切に思っているからね。


                      さようなら 』


 これを読んでも、安子は夫を心配する気になれなかった。

 死んで、と言われたから死んでやると書いてあるだけだ。

「 なによ、こんなもの真にうけて警察に連絡したら、とんでもない恥をかくわ。

 富士の樹海だって?こないだテレビで特集をやっていたわね、

 それを見て思いついたんでしょうけど、

 本当に死にたかったら行き先なんて書きゃあしないわ」

 安子はフンと鼻をならして手紙を机の上に投げ捨てる。

「おふくろ、なんなんだよソレ」

 いきなり声がしたので振り向くと、一郎がドアのところに立っていた。

相変わらずトカゲみたいな色の髪を逆立てて、暴走族の特攻服を着ている。

「あんた、夕辺どこに行ってたのよ。またろくでもない連中と遊んでたんでしょ」

安子が毒づく。一郎はいつもならくってかかるのだが、

今は安子が読んでいた手紙が気になっているようで、

すぐに近寄って手紙を読み始める。一郎は真っ青な顔になった。

「おふくろ、こりゃやばいよ・・・親父が死んじゃうよ」

 安子は声を出して笑う、

「そんなことあの人に出来っこないわよ!何が樹海よ、

 ちょっと私がきついことを言ったからってこんなモン書くなんて笑うわ」

 安子の心の中で半分は、もしやと言う不安があった。

でも、そんなこと出来る人じゃないという見くびりもあったのだ。

「あ−、ヤダヤダ、今日はいい天気だから植木に水やんなきゃ、

 こんなに植木いっぱいベランダに並べちゃって本人は家出だってさ!」

 安子は不安な気持ちを隠し、水の入ったバケツを下げてベランダに出る。

 夫は植物が好きだった。

栄養が行き届いている証拠に、よく育って花をたくさん咲かせている。

 水をやりながら安子はあれっ?と言った。

「どうしたの?」

一郎が窓から顔を出す。

「この鉢だけ、どう見ても雑草しか植えてないんだけど・・・

 なんでこんなことしたのかしら」

 腹立ちまぎれに引っこ抜こうとすると、

「あっ、それ親父が抜かないでくれって言ってたよ」

一郎の言葉に安子は怪訝な顔をして、どういうこと?と聞いた。

「この家に引っ越して来た時、親父がプランタ−に花の種まいていて、

 一つのプランタ−にだけ何もまかないから、どうして?って聞いたんだ。

 そしたら親父、ここは特別大事な場所だって言うんだ。

 しばらくして種から芽が出てきて葉っぱが出る頃、雑草も伸びて来た。

 親父はその雑草を大事に取って、その特別なプランタ−に植えたんだよ。

 俺は、バッカじゃねえの、そんな雑草捨てちゃいなって言ったんだけど、

 親父は怒りだして、誰がそんなこと決めたんだって言うんだ。

 雑草も、この花も植物に変わりはない。きれいな花が咲くから観賞用、

 きれくないものは雑草、ただそれだけで分けてしまう。

 雑草はどこででも生きられる強い植物だ。

 摘まれる理由はどこにもない。

 人間だってそうだ、何も取り柄がないから、

 他人より容姿が劣っているからとかで、

 無視されたり嫌がられたりするけど、あれはおかしい。

 どんな物も一生懸命生きている。

 だからお父さんは雑草を捨てないんだって・・・

 そんなことを言ってたなあ・・・」

 安子は夫の心のやさしさに胸を打たれた。

そんな夫が、家族の為に死のうと決心したらどうなるか・・・

安子は初めて自分の言った言葉の恐ろしさを知る。

「親父を助けに行こう!」

 安子の不安を感じとり、一郎が泣きそうな声で言った。

 安子はもう一度夫が書いた手紙を読む。

書かれている言葉の一つ一つに夫の愛がある。

さっきはどうしてわからなかったのだろう・・・

 後悔の波が悲しみを乗せて押し寄せる。

 安子は肩を震わせて号泣した。


・・・十月十二日 午前五時・・・

 平山英子は今日、一か月前からの計画を実行に移す。

誰も英子が死ぬなんて思ってもいないはずだ。

英子の苦しみを知ろうともしなかった。

 今年始めに父が亡くなり、もう自分を悩ます原因が無くなったはずなのに、

英子の心は晴れるどころか、

果てしなく暗く、どこまでも落ち込んでいった。

 そんなある日テレビの特番で、

自殺の名所として富士の樹海が取り上げられていた。

英子はその番組に興味を持った。

富士急を使えば、わりと早い時間で河口湖駅に着く。

そこからバスに乗ればいいのだ。

 一年ほど前から英子は、近所の医院で睡眠障害の治療を受けていたが、

この日の為に、もらっていた安定剤を一か月分、飲まずにためこんでいた。

とにかく死にたい。でも、家族には家出したと思わせたい。

 私を、ずっと探せばいいのよと英子は思った。

夫も昭子も、英子がこんなに追い詰められていることを知らないのだ。

いや、知ろうとしてくれなかった。

それが腹立たしくて、

英子は怒りを込めて、夫と娘の部屋のドアに一枚づつ

『さようなら』と書いたメモを貼りつけて家を出た。

それを見た二人がどんな顔をするかを考えると、

とても愉快な気持ちになった。

今頃になって慌てても遅いんだからねと、

たっぷりの皮肉を込めて書いた『さようなら』だった。


・・・十月十二日 午前十一時二十五分・・・

 樹海の入り口に着いた英子は、

立て看板の前に立っている、一人の初老の男性に出会った。

 私は中に入りたいのよ、なんでこんな所に立ってんのよと英子はいらつく。

ブスッとした顔で立っている英子を見て、男性はやさしい笑顔を見せた。

「大丈夫、止めたりしません。私も今から中に入ろうと思っていたんですよ」

 英子は心を見透かされ、一瞬ドキッとしたが、

同じ目的でここに来た人だとわかって安心した。

せっかくここまで来て、引き止められて説教されるなんて最低だ。

 それではお先に、と英子が中に入ると、あとから男性もついてきた。

普通なら警戒するところだが、

英子はその男性に嫌な感じを覚えなかった。

「あの・・・」うしろから声がする。

英子が振り向くと、

「もし宜しかったら、一緒に行きませんか?」と言う。

英子は意味をはかりかねて、首を傾げる。

「私は宇山治一と申しますが、死のうと決心したものの、

 やっぱり一人では不安で、あの・・・ご迷惑だったら」

と遠慮がちに言う。

 正直言って英子も一人よりは二人が心強い。

でも、初対面の男性と一緒というのも・・・一瞬迷ったが、

どうせ死ぬんだもの何を警戒してんのよ、と割り切った。

「いいですよ、一緒に行きましょう。私は平山英子です。

 とびきりの死に場所を探しましょうよ」

 一時間ほど歩き回っているうちに、

大きな木の下で眠っているサラリ−マン風の男性をみつけた。

「死んでるのでしょうか・・・」

英子が宇山に聞く。

宇山は寝ている男性の顔を見て、生きてますよと答える。

「なんか気持ちよさそうに寝てますね、薬でも飲んだんでしょうか」

英子は男性の横に転がっている薬の瓶を見て言った。

「こりゃ、もう少ししたら目を覚ましますよ。

 死にたかったらもっとたくさん飲まないとダメだ。

 ねえ、旅は道ずれと言います。

 この人が目を覚ますまでここにいましょうよ。

 一人より二人、二人より三人がいいと思いませんか」

 そうですね、ここにいましょうと英子は答えていた。

即答した自分に驚いたが、べつに一人で死にたい訳でもない。

 今は十月だが、樹海の中はまるで初冬のように冷える。

寒そうにしている英子を見て、

宇山が木の枝や落ち葉を集めて焚き火を作ってくれた。

 ポカポカと身体が暖まってきた頃、

眠っていた砂部が目を覚ます。


・・・十月十二日 午後三時・・・

 宇山達は火事にならないように焚き火を崩し、

火種を丁寧に足でもみ消し、

完全に火が消えたのを確かめて出発した。

自殺者の為に書かれたあの看板を探せば、

遊歩道に出る道があるはず。

三人は樹海の中を歩き回った。

しかしどんなに歩いても、元いた場所に戻ってしまう。

「どうしたんでしょうね・・・こりゃ完全に遭難だ・・・」

 歩き疲れた砂部の声がかすれている。

宇山は肩で息をしながら焚き火の側に座りこんだ。

「火が・・・」

青白い顔の英子が指をさす。

ここを離れる時、

三人が足できれいにもみ消したはずの焚き火が、

こんもりと盛り上がり、

まるで今新しく作ったかのように勢いよく燃えている。

「嘘だろう・・・僕は確かに燃えかすを蹴散らしたぞ」

砂部が唸る。

 狐に化かされると言うことが本当にあるのなら、

こんな現象を言うのだろうと英子は思った。

 しばらくは誰もが無言になり、

不可解な出来事を解明しようと考えていたが、

宇山が重い口をひらいた。

「まあ・・・救援を待つという手もあるし、

 ダメならあきらめて最初の目的を実行するだけだな。

 私はともかく、お二人は家に帰してあげたかったけど」

「私はともかくって、何かご自分だけは絶望的みたいにおっしゃるけど、

 宇山さん・・・何があってそこまで死にたいの?

 ご病気のこと話してくださったけど、

 それだけじゃないように私、思うんですけど・・・」

「平山さん、宇山さんには宇山さんのご事情があるんですよ。

 我々は自殺をしにここへ来た、それがすべてです。

 事情を話す話さないは宇山さんの自由ですからね、

 詮索はいけません」

砂部が英子をたしなめるように言うと、

英子は素直にごめんなさいと宇山にあやまった。

 宇山は温厚な顔に笑みを浮かべ、

いやいや平山さんがあやまることはないですよと手を振った。

「砂部さん、私に対する思いやりに感謝します。 ありがとう・・・じつは・・・」

宇山は事情を話す気になっていた。

「いえ、本当に砂部さんのおっしゃる通りです。

 お嫌なら話していただかなくてもいいんですよ」

英子が言う。

「いえいえ、そんな大層な話しでもないんです。

 よくある話しなんですよ・・・

 社長がアルツハイマ−になって退かなくてはならなくなった、

 次の社長は誰がなる・・・そんな話しです。

 息子が三人いると言いましたが、

 お恥ずかしい話しですが、社長の座の奪い合いが始まりました。

 私は幸か不幸か、まだ正気です。

 息子達の醜い争いを見るのが嫌だったと言うこともあったのですが、

 長男が嫁と話しているのを偶然聞いてしまったんです。

 お父さんいつまで正気なのかしらって嫁が言うと、

 息子はそれを咎めるわけでもなく、

 どうせボケるんだから、早くボケりゃあいいものを、

 いつまで社長でいるんだろ・・・なんて・・・ね。

 情けなかったですよ。私は息子達を可愛がって育てました。

 手元から離したくないから自分の会社に入れたんです。

 それから息子はもう一つ、言ってはならない言葉を言ったんです。

 いっそコロッと死んでくれたほうが世話しなくてすむってね、

 我が子に死ねと言われたんです。

 あぁ!死んでやるよって言う気になりました。

 一昨年家内が癌で先に逝っていますから、

 きっと私が来るのを待ってくれていると思いますしね」

 宇山の目に涙がにじんでいる。

 砂部は悲しかった。

自分はリストラされた為に職を失い、妻から死んでくれと言われた。

宇山はアルツハイマ−になった為、社長の座を追われたばかりか、

息子に死ねばいいのにとまで言われた。

家族の為に頑張ってきたのに、使えなくなったら死ねと言われる。

 宇山と砂部の泣いている姿を見て、英子は父のことを思っていた。

私は認知症になったというだけで、父を捨てた。

父は子供の時から私をとてもかわいがってくれていた。

もし私と父が逆の立場で、私がボケたとしたら、

父はきっと私を捨てたりしないだろうに。

 宇山や砂部は家族から死ねと言われた。

自分はボケて奇行を繰り返す父を欝陶しく思い、

いっそ死んでくれと思ったことがあったのだ。

 英子の胸は苦しみのあまり、破裂しそうになっていた。


・・・十月十二日 午前八時三十分・・・

 英子が出て行ったあと、

ドアに貼られたメモを見て、平山家は大騒ぎになっていた。

夫の健二は警察に捜査願いを出し、娘の昭子は母の持ち物の中に

何かヒントになるものがないか探していた。

そして、いなくなる前日までに母がパソコンに熱中していたのを思い出し、

あわててパソコンに残っている履歴を調べてみた。

「お父さん、樹海よ!お母さん富士の樹海を調べてるわ。

 自殺しようとしてるのよ。早く助けなきゃ、

 病院でもらっていた安定剤をいっぱいためていたんだけど、

 それも無くなってる。持っていったのよ、それを飲んで死ぬ気よ」

「安定剤なんかためてるのを知っていたのなら何故俺に言わなかったんだ」

「言うも何も、まさか死ぬ為にため込んでたなんて知らないもん!」

「馬鹿!おかしいと普通思うだろが」

 昭子は大声をあげて泣き出す。

 健二は言い過ぎたとあやまり、昭子の肩を抱いた。

「とにかく警察に樹海のことを連絡して、俺達も今からすぐ行ってみよう。

 今日中に探せるかどうかわからないけど、

 何もしないでじっとしているよりはいいだろうからね」

 健二は警察に事情を説明して、昭子を車に乗せて樹海に向かった。


・・・十月十二日 午後二時・・・

 富岳風穴の前に車を止めると、健二と昭子は樹海の入り口に向かった。

立て看板の前で、憔悴しきった中年の女性と、

息子らしいが派手な髪をした少年が数人の救援隊と地図を広げて見ていた。

 健二は近づいていき、事情を話し合流させてもらうことにした。

聞けば女性の夫が自殺の予告をして、昨日樹海に入ったらしい。

昨日は暗くて満足に探すことが出来ず、

今日も朝早くから探しているが見つからない。

今からもう一度探してみるがと絶望感を漂わせている。

 健二は不安にゆれる昭子の手をにぎりしめた。

 宇山はセカンドバックを頭の下に敷いて横になった。

砂部と英子は無言のまま、ずっと焚き火をみつめている。

辺りが随分暗くなってきた。

焚き火のおかげで少しも寒くないし、砂部と宇山が一緒という安心感で

英子は急に眠たくなった。

宇山と同じように鞄を枕に横になり、深い眠りに落ちていった。

 どのくらい眠ったのか、

誰かに身体を揺すられて目が覚めた。

「お母さん!」

昭子の顔が見えた。

「英子!大丈夫か」

夫がいる。

見つかったぞ−っ!救援隊員の声が樹海に響きわたる。

 「隊長、白骨体が一体あります!」

 英子はギョッとして声のしたあたりを見ると、

古びてはいるが、確かに宇山が着ていた服から、白い骨が見えていた。

あわてて砂部を見ると、妻らしい女性と、派手な髪の色をした男の子が、

泣きながらすがりついている。

「ダメだ、完全に死んでいる」

砂部の首筋に手を当てた隊員がつぶやいた。

 結局助かったのは英子一人だったのだが

宇山は、死んでから一年近く経っていて、

砂部の死亡推定時刻は、十月十一日午後三時から六時の間だと

後日聞かされた。

 英子は守山と砂部の幽霊と行動を共にしていたというわけだ。

しかし、英子は守山と砂部のおかげで、生きる希望を見いだせた

 タンカに乗せられ樹海を後にする英子の耳に、


「帰りましょう!家族のもとに・・・」


 宇山の声が確かに聞こえた。

−END−

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