侵食
その日は朝から細かい雨が降っていました。サーサーと静かな雨音はもう朝なのか昼なのか分からなくなるくらいに、世の中から光りを奪うのではないかと思わせました。道路を走る車はいつも通りで、何も変わりはないように思えました。けれど、普段は開いているはずの商店は閉まっていて、人通りは異様に少なかったのです。
「はぁーこんな日にテストがあるなんて憂鬱。」
「ホント、曇ってるってだけでもテンションさがるっつーのにね。」
「この霧雨ってなんかヤな雰囲気じゃない?」
「どこが?」
「なんかね・・・ん〜なんだろ。何となくヤな感じがする。」
「ふへっ意味わかんない。でも、降るならドシャーって降れって感じよね。シトシト。これって確かにヤな感じだわ。」
「ちょっと私が言いたいことと違うんだけど〜。」
私、中村由美は親友の川田桃花と学校へ行く途中、こんな話をしていた。
下駄箱に靴を仕舞い、上履きに履き替えた時だった。桃花が、
「ね、ちょっとヘンじゃない?」
上履きのかかとを直してから桃花に返事した。
「ん?どうかした?」
「ヘンだよ。だって下駄箱みてごらん。誰も来てないんだよ。」
下駄箱にあるのは全て上履きだった。ということは、誰も履き替えていないことになり、桃花の言う通り、学校にはまだ誰も来ていないのだ。それはおかしい。もう始業時間の10分前で、普段なら殆どの人が来ているはず。
「桃花・・・今日、火曜だよね?」
「そうだよ。時間も曜日も間違ってないって。なんで?なんで、誰も来てないの?」
桃花は今にも泣き出しそうだった。朝から降るか細かい雨はまだ降っている。その雨が音まで吸収しているように、やけに学校は静かだった。
「ね、桃花、取り合えず教室まで行ってみよ。」
私は桃花を促して、二階の一番端にある2年2組の教室のドアを開けた。教室には誰もいない。来た気配すらない。
「由美、ねー、由美!」
「ちょっとーびっくりするじゃない、そんな大きな声で!」
「見て・・・・」
桃花が指す校門前の道路を見た。さっきまで車が何台かは走っていたのに、今は一台も走っていなくて、人影すら見えない。しかも、ここから見える限りの全ての信号は黄色の点滅で、私達は夢でも見ているのかと思った。
「ヘンだよね?これっておかしいよね?ね、由美。」
「え、うん。おかしいよ。どうなってるの?桃花は分かる?」
「そんなこと分かんないよー。あっそうだ由美!電話、電話してみようよ。」
「誰に?」
「・・・・誰にって。あれ?・・・今誰に掛けようと思ったんだっけ?」
「やだぁ桃花どうかしちゃった?取り合えず・・・・えっと・・・」
「ね、由美は誰に電話するつもり?」
「えっとね、えっと・・・えっと私達の他に誰かいたっけ?」
「いたような気はするんだけど、何か頭ん中がモヤモヤしてて分かんないの。」
細かい雨は景色を霞めるように降り続け、私達の周りを少しづつ侵食しているようだった。携帯電話を握ったまま、掛ける相手が見つからない私達は、教室から出ることも恐怖で、椅子に座り込んでしまった。
「桃花、私の目がヘンなのかな?段々町が薄くなってる気がするんだけど・・・」
「ううん。薄くなってるよ。少し消えてきてる。」
「えー?なんで?何が起こってるの?」
「私も分かんないってば!何か、怖いんだけど。」
「私も、怖いよ!」
私達が見ている景色は少しづつ、少しづつと視界の端から薄くなり、やがて消えてゆきグレーの一色に染まってゆく。私達は手を握り小刻みに震える身体の振動を互いに感じ取り、それが無言の恐怖へと移る。
「桃花!」
気が付くと、私達がいる教室も外の景色と同じ様になってきた。教室の壁は消え、グレーに染まってゆく。じわじわと、恐怖心を煽るように。
「ゆ、由美、もうここまで来てるよ。」
そう、もう足元にまで来ていて、椅子に上るしかなかった。しかし、椅子の脚はジワジワと消えゆき、もう上履きが消えそうになっている。
「消えちゃうのかな?」
「・・・・・かもね。」
私達は同時に足元から消えて、やがてここはグレーの世界となった。シトシトと細かい雨がまだ降っている。霧のようで、靄のようで、はっきりしない世界が世の中を包み込んでしまった。
「今日はここまでにしましょう。この治療はゆっくり時間を掛けないとダメですからね。」
「はい。明後日の予約入れてあるので、宜しくお願いします。」
少女が母親に連れられて診察室をあとにした。母子が去った診察室では、医師とその助手が、
「だけど医師、あの若さで記憶を無くすなんて辛いでしょうね。彼女まだ高校生ですよ。」
「そうだね、けれど、一番の親友の裏切りで心を壊してしまっているのに親友だけは記憶に残ってる。由美さんは繊細で優しい女の子なんだ。だから、本当の由美さんに戻してあげたいよ。親御さんのためだけじゃなく、謝りたいといつも付き添って来る桃花さんのためにもね。」
「由美さんは桃花さんが後悔していること、今は知らないでしょうからね。」
霧雨の中、診療所の玄関先で母子に向かい、頭を深く下げ泣いている桃花の姿があった。
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