コドモスイッチ
オバ恋
ナオコは、便器に向かって何度も吐いた。ダラダラとこぼれ落ちる透明な胃液が、眼球から流れ出る滴と重なっては、無機質な水溜りの中に淡々と落ちてゆく。
私はどうしてこんなに悲しいのだろう。言い出せずに飲み込んだたくさんの言葉の変わりに、止めどないこの液体が身体を浄化する。これまで幾度となく繰り返された孤独な儀式。
40歳で始まった大人の恋愛≠ヘ、本当は、全然大人の恋愛≠ネんかじゃない。私だって、どうして? なぜ? タケシに言いたいことは山ほどある。だけど言えない、だってオトナだから。モノの本によると、大人の恋愛は「相手の立場や環境・モチベーションを理解してなんぼ」の世界なのらしい。だから、相手が疲れている時は決してグダグダ面倒な話をふらず、黙って眠らせてあげるのが一番良いのだとか。
じゃー、相手が疲れているのがわかっているけれど、忙しいと知っているけれど、それでも甘えたいときはどうしたらいいの? 人間、みんなが一斉に同じタイミングで今日からいい大人≠ノなるわけじゃない。茶色の髪が、「白髪染め」で作られた嘘っこだからと言って、身も心もオバサンなわけじゃないのだ。女は愛する人の前では、いつだってふにゃふにゃに溶けそうなキャラメルみたいなもんじゃあないのか?
コトが終わってそそくさと寝込んでしまったタケシの裸体を眺めながら、腕枕を求めなくなったのはいつからだろう、と思う。頭と首の間のちょうどよい隙間に滑らせた腕。男が少し重苦しいのを我慢していると知っていながらぴったり肌を密着させるなんて、私にはできない。けれど、黙ってそっと手をつないで眠れたらどんなにか幸せなことだろう。お互いの身体が何も反応しないほど歳をとってしまっても、このやわらかい男の中心に唇を這わせることができれば、それはそれですごく優しい気持ちになれるんじゃないか。なんてぼんやり考えてみる。自分の生理が上がった後のこと、相手の性器に力がなくなった時のこと、そんなことをリアルに想像している自分は、やっぱり若くない。現実的にはキャラメルというより、黒糖飴みたいなものでカッチカチのコッチコチ。甘い気持ちは固い鎧の中にいつもしまわれたままになっている。
ナオコがタケシに出会ったのは6年前、タケシのプロデュースするアーティストの音楽を雑誌に紹介したのがきっかけだ。当時、雑誌の編集者をしていたナオコのもとには毎月たくさんの音源(CD)が送られてくる。たくさんの曲を聴くほどにわかる売れたいオーラ¢S開の流行の歌詞とリズム。キャッチーなジャケットに彩られた銀色の皿は、何人も美味しく召し上がれとどれも同じ味付けだ。
そんな中で見つけたのが、「これはなしでしょう」と言うほど安っぽいジャケットの名前も知らないアーティストの1枚。そこにおさめられていた料理は、ナオコが今まで食べたことのない、得体の知れない味付けが施されていた。周囲の束縛を受けずに自由に作られた曲、アーティストが自由に言葉を紡ぎ音をつないだ伸びやかな気配がそこここに漂っていた。
「これ、作ったアーティストもオモシロイけれど、出すの許したサウンドプロデューサーとかメーカーも、ギャンブラーじゃない?」そんな興味から依頼したインタビューが、数日後にはふたつ返事で実現していたのだ。
アーティストのインタビューにはたいがいマネージャーが同席するのだが、今回は何故か「レーベルの人」が同席。そしてその「レーベルの人」が、サウンドプロデューサーのタケシだった。どうやってこの曲が作られたのですか?という質問に返ってきたのは「自由に好きな曲を作って、って言ったら出来た」と言ったきり、それ以上でも以下でもないと言いたげな表情だ。
「この人の脳の襞を全部解読してみたい。分厚い胸板の下に隠された心臓はどんなリズムを刻んでいるのだろう」そう思った瞬間から、きっと彼を愛していたのだと思う。潜在的に。
付き合いが始まったのはそこから5年後のことで、メールのやりとりをしているうちに何となくそういうことになった
引く手あまたなモテ男がたまたま遭遇したフリー期間の隙間に、私がゆるゆると滑りこんだというのがきっと本当のところで、彼に隙間≠ェなかったら、こんなに簡単に付き合える手合いの男じゃない。ギョーカイ人の軽さとノリの良さで、手名付く女の子なんてきっと山ほどいるはずだ。
そんなタケシがどうして私なんかと付き合い始めたのかー。答えは簡単だ。大人だから。面倒なことを言わない、相手に依存しない地に足の付いた大人の女に見えるからだ。仕事上作られた私の別の顔を、本当の私だと思っている。
だから。数ヶ月に一度の縁恋の逢瀬は、聞いてほしい愚痴も、してほしいハグも、全部望まずに笑う。おしゃれをして、丁寧にネイルを重ね、いつも平常心で向き合う。たくさんの言葉の中からいつも「お互いの関係のために最適な一言」を選びだし、頷く。
そして、タケシと過ごした後のひとりきりの時間、便器に向かって穴埋めをするのだ。本当の自分を飲み込んでも、傍に居たいほど愛おしい男は、私がフツーのコドモに戻った瞬間にきっと離れていくのだろう。自分をさらけだしたい欲望と、男を失うことの寂しさの狭間を埋める嗚咽は歳を重ねるごとに回数を増していく。
自分を守るための言葉が、いつのまにか、自分を苦しめる。誰かがどこかで作った乾いた台詞の真実を、頭のいいタケシが気づかぬままこの先一生を終えることなどできるのだろうか。自分をごまかすことに気をとられて、タケシの魂に触れたいと願ったあの日から、実は何も進んではいないのではないか。誰にどう思われても構わない、という生き方を貫いているタケシと私は光と影のように、間逆だ。
愛されたいなら愛しましょう、相手のことを知りたければ、自分も心を開きましょう。40年生きてきて学んだ人生の教訓が、唯一活かされない時空が、オバ恋。きれいごとではなくて、自分の気持ちを抑えることでしか手に入らないモノもある。ということも、また別の人生の教訓として知っている。きっとそれは愛情というより、情愛と言うべき思いやり。自分以上に大切な誰かが、いつも笑顔でいられるようにと願うこと。そんな人に巡りあえた人しか味わえない、偏った幸福感に支えられて生きている女が必ずしも不幸だとは限らない。
・・そんな日々の繰り返しの中で、運命の日は、意外なほどあっけなく訪れる。二日の予定の小さな旅が、タケシの仕事の都合で、一晩だけのショートステイになった朝のこと。「お仕事なんだから仕方がないわ」と言いながら、私は不覚にも涙をこぼしてしまったのだ。時間がなくなってしまった事情にではなく、次に逢える日を口にしないタケシに対して、だ。自分の手帳を開く私を制したタケシに対して、だ。
今度はいつ逢えるのかな? 忙しいタケシが一番嫌う質問を飲み込む代わりに、いつもよりちょっとだけ早く、私の身体から液体がこぼれ落ちていく。寂しい、離れたくない、また逢えるって約束して。言葉にならない心の叫びが、無数の滴となってダラダラと流れていく。
私の中のコドモスイッチを勝手に入れたのは誰? もう駄目だ。嫌われる。大人の筋書きには、別れ際の陳腐な涙なんてありえない。笑顔でお仕事頑張ってね! と、送り出すはずじゃなかったのか。
…この瞬間から、私は、タケシにとって、このうえなく面倒くさい女になったに違いない。丁寧に描かれた小花のイラストを気にもせずに、ただ無心にガリガリとツメを噛む。本当のコドモの頃に味わったに不思議なニオイと歯の内側で鈍い音を立てる固い体の残骸を、阿呆のようにいつまでも噛み締めていた。
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