白雪姫と詐欺師

著:

 虚像の彼女は、いつの間にか、実体になっていて。


 ずっと前のことだ。
「奏!」
 夕陽の下で、彼女は僕に手を振った。
 僕も、彼女に手を振った。
 彼女は、さっきドーナツ屋で買ったばかりのアップルパイを手に、家路へと走った。


「あちぃ……」
 思わず声が漏れる。今は冬なのに。外気は刺すように冷たいのに。雪が降り始めている。頬に触れる結晶が、冷たい。体内と体外の温度差が著しい。
 僕は、ただ懸命に自転車をこいでいた。歩道の人通りが多くなり、段差を降りるとかごの中の大きなかばんに入っているリンゴが盛大に跳ねた。
 病院の自転車置き場に、愛車を置く。全く、周りの友人はみな免許を取っているというのに。いいか、環境に優しくて。自分に言い訳をする。
 そして、かごに手を突っ込んで、赤い実の入ったかばんを取った。

 これは彼女の好物だった。一週間前までは。
 今はどうかって? 僕の知ったことではない。

「弥生」
 弥生はひとり、ベッドの上に上半身を起こし窓の外を見ていた。四角い、白いつまらない空間の中で、切り取られた空の色を見ていた。
 なんだかとても楽しそうに見えたので、僕はそれ以上声をかけることをやめる。
 でも、何が楽しいと言うのだろう? 外は、美しい山があるわけでも、高層ビルが立ち並ぶだけでもない。ただの、住宅街だ。それとも、雪でも見ているのか。
 そう考えながら僕はダウンのファスナーを開ける。冬なのに、全力で走ったために暑い。僕は人一倍新陳代謝がいいのかもしれない。その音で、弥生はようやく僕の存在に気づいた。
「奏さん」
「……あー……呼び捨てで良いって言ったろ、兄貴みたいなもんだったんだから」
 そう言うと彼女はごめんなさい、と肩をすくめた。
 一週間前、弥生は交通事故にあった。特に、死ぬような、大きな怪我があったわけではない。強いて言うなら、足を捻挫した位か。
 しかし、彼女は大切なものを失った。
 記憶だ。
 生まれてから今までの、十七年分のほとんどの記憶を失った。気が強く、初対面の人にも馴れ馴れしかったはずの彼女が、急に余所余所しくなった。
 全ての記憶を失ったわけではない。だから、いまも普通に話が出来る。でも、残りの記憶が戻るのは難しいらしい。
「リンゴ、買ってきた」
 弥生の顔が、ぱぁっと輝いた。
「ほんとうに!?」
 僕は、あれ、と首をかしげた。
「お前、事故の後リンゴ食ったことあったっけ」
 弥生は首を振る。
「微妙に覚えてるの。赤い奴でしょ?」
「……あぁ、まぁそうだけど」
 正直、リンゴのことは覚えていて僕のことは忘れたのかという心境だった。まぁ、食い意地の張っていた彼女らしいといえばそうかもしれないが。それに、そのことを口に出すと今の彼女は萎縮してしまうのは目に見えていた。だから、心の奥底にしまっておいた。ベッドの横の、パイプ椅子に腰かける。
 僕はかばんの中からリンゴとナイフをまるで手品師のような手つきで出した。そして、そんなことを年甲斐なくした自分に恥ずかしさを覚えた。慣れた手つきで皮をむく。弥生は感心したように、ため息をつく。
「奏さん、すごいね」
「お前も出来たよ」
 弥生はそうなの、と目を見張る。そして退屈をしている小さな子供のように、ひざを抱えた。
「なんか、前にもこんなことがあった気がする」
 思わず手が止まった。赤い皮はそこで途切れ、膝の上に置いておいた皿の上に落ちた。弥生はその様子に気づき、苦笑する。
「思い出したわけじゃないんだけど、ね。前に、誰か、大切な人がこうやって皮をむいてくれた気がする」
 
 その時、弥生の言葉でよみがえる光景があった。
 ずっと前、高校二年生くらいのとき。
 風邪を引いた彼女を、見舞いに行った。
「おーい、生きてるか?」
 弱弱しい声が返ってくる。
「生きてる。……アップルパイが食べたい。死ぬ前に」
「バカか。風邪で死ぬかよ。アップルパイとか言ってる時点で食欲旺盛だろうが」
 学校帰りに寄ったスーパーの袋を出した。
「風邪の時はアレだろ、果物だろ」
 掛け布団の中にもぐりこむようにして、彼女はまた言った。
「今は生のリンゴよりアップルパイが食べたい」
「いや、風邪の時にそんなの食ったら絶対吐くだろ」
 そう言って、皮をむいた。
 彼女はそれを奪い取って、思いっきり僕をにらみながら皮のついたままのリンゴを食べたっけ。
 結局、気まずそうに『ありがとう』といってきたけど。

「どうしたの、奏さん?」
 気づくと弥生が僕の顔色を覗き込んできていた。
「や、何でもねーよ。てか、呼び捨てにしろって。前はそうだったんだから」
 はーい、と弥生はとぼけた返事をした。


 ずっと前のことだ。
「奏!」
 夕陽の下で、彼女は僕に手を振った。
 僕も、彼女に手を振った。
 彼女は、さっきドーナツ屋で買ったばかりのアップルパイを手に、家路へと走った。
 そして、それが、最後だった。

 病院の外に出ると、日差しが雪に反射して憎らしいほどにまぶしかった。幽霊が日光の下に出るとこういう気分になるのだろうか。吸血鬼は? 口裂け女は?
 それほどに、僕は自分が悪いことをしているような気分になっていた。嘘つきの気分。詐欺師はなぜ堂々と歩くことが出来るのだろう、後ろめたくはないのか?
 この一週間、病院の外に出るたびにこんな気分になっていた。弥生と話しているときはこんな風にならないのに。
 何故こんな気分になるのだろうと自問する。
 嘘をついているからだよ、そのままだ。
 僕は弥生と決して知り合いと呼べるような関係ではなかった。
 弥生が、僕のことを呼び捨てにしていたなんて、嘘だ。
 弥生と会っていたのは、彼女と付き合っていたのは、僕の弟だった。
 弥生と会っている間は、自分にも嘘をついているから。だから、苛まれないんだ。
「……響」
 空を見上げて、弟の名を呼んだ。あいつは、一週間前の事故の日、弥生を護ろうとして、死んだ。
 そして僕は、事故の次の日、弥生に初めて会った。
 その時の衝撃は、口では表せないほどで。思わず立ちすくんだ僕に、弥生はそっと首をかしげた。

 あまりにも、似ていたから。
 響が生きていた時、弥生の話をきいたことはあった。その時も、性格が似ているとは思っていた。
 でも、あそこまで似ているなんて。
 その時、立ちすくんだ僕の目の前に、存在したのは、『彼女』の生き写しだった。
 重ねてはいけないと、判っているはずだった。
 それでも僕は、弥生に、二年前死んでしまったはずの『彼女』の面影を重ねて。

「結奈、お前、食いすぎ」
 結奈は三個目のアップルパイをかじりながら言った。
「奏、そんなに食べたいの? すっごくうらやましそうな顔してるよ?」
「はぁ? 殺されたいか」
 それは冗談だった。でもその三週間後、結奈は事故で死んだ。
 
 僕は彼女を護りきることができなかった。
 弟にも出来たことなのに。

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