カフェラテ

著:深谷忍

どこかに行かないでと。
何度この空に願ったのだろう。

悲しくて、愛しくて。
切なくて、甘くて。

溶けるような、お話。
カフェラテみたいな、恋。






始まりは友達付き合い。 人数合わせの、合コン。 カラオケで、一人やる気無さそうにあくびしてたあなた。 私と一緒。人数合わせの、つまらない時間。 ビールと、ポッキー。 チーズに、コーラ。私は元ちとせと、東京事変を歌って、あなたは日曜日よりの使者だけ歌った。
それから沈黙。
時間が経つに連れて目が合った。 周りではカップルができていって、騒いでる中、私とあなたの間だけ、沈静な空気が流れてた。
退屈な合コンを二人で抜け出した。 走って走って…ラブホ街についたけれど、歩きながら名前を言い合った。 私の名前は、松川舞。 あなたの名前は、金橋透。 有りがちな名前ね、二人とも。
洒落たバーで一通り飲んだ。 マティーニと、バランタイン、シャンパン。 それから、あなたが選んでくれた、ピンクとクリーム色の層の、綺麗なカクテル。
何を、してるの?
聞けばあなたは初めて笑ってくれた。

「変な事聞くんだね」

静かで、世俗的で。 ゆっくりと、優しく笑った。 君こそ何してる人と聞かれて、大学生だと答えたら、あなた驚いた顔。

「じゃあ結構年離れてる」
「本当?」
「俺、25。建築やってる」

まだまだ新米で何もさせてもらえないけどね、と。 また笑った顔が、年相応に見えなくて、私も笑った。

「残念だな」

カウンターの席に、人がいなくなった。 終電近くの新宿のバー。

「どうして」

不意に近くで合った目が、深くて、意思のある強い光を放っていて驚いた。 優しい声で、悪戯っぽい顔をした。

「君に手を出したら捕まりそうだ」

それから笑い合ったあの甘い時間。 もうすぐ20歳だから大丈夫と言えば、そうだね、とだけ答える。
あなたのケータイは、セーターと同じ淡い緑色。 私のはそれには合わないかもしれない、クリーム色にピンク。 あなたは優しい色だねと、呟いた。 番号とアドレスを交換して、時計を見た。
もうすぐ終電。 間に合わなくてもいいと思った。 この密度の濃い窒息しそうな空気に、終わりなんて来なければいいと思った。 離れたくないと。
お金をピッタリカウンターに置いて、バーを出た。 駅まで、振り子時計のようにゆっくり歩いた。 最初は間に人が通れそうな程遠かった。 段々と二人近くに寄って。 やがて肩が触れ合った。
真冬の夜空の下。
手袋もつけていなかった私の手は、凍るほど冷たくて。 でもずっとポケットに手を入れていたあなたの手は大きくて暖かくて。 気がつけばしっかりと手をつないでいた。
おかしいね。
小学生みたいに二人、迷わないように手をつないで。 しっかり繋いで。
駅まで送ってくれた。 手を繋いだまま、向き合って、笑いあった。 まるで、初めて会ったんじゃないみたいだね、と。 バイバイって手を振った。 繋いでいた手を離した手。
閑散とする駅の空気が少し冷たかった。




一週間経って、メールが一件。 私は大学のカフェの中、つまらない課題に没頭してた。

『仕事貰った!』

あなただった。 最初はなんの事だか分からなくて、次に新米だって思い出して。 すぐに電話した。 登録したまま、使ってなかったケータイ番号。 初めて画面にあなたの名前が出て、ちょっとドキドキした。

「おめでとう!」
「おぅ。今から会える?嬉しくて仕方ないんだ」

私もだよ! 心の中で叫んだ。 あなたがやりたい事貰えて嬉しい。 あなたが嬉しい時に、連絡してくれて嬉しい。
友達に講義の代弁をお願いして、駅に走った。 午前の各駅停車の中は人も少なくて、私、一人でそわそわしながら到着を待った。
あの、駅。

「久しぶり」
「久しぶり」

声は重なった。 あなたのテノール。 耳に心地よく響く音色。
カフェに入って、私はカプチーノ、あなたはエスプレッソ。 お茶請けはリンツのチョコレート。

「これ。見て、小さいけどちゃんとした仕事なんだ」
「……マンションの内装…?」
「そう」
「凄いのね」

小さくなんてないわ。 あなたが作ったその場所に、誰か人が生活するんだから。
それにしてもこれは危険。 思った以上に私は、のめり込んでるのかもしれない。合コンで出逢っただけだけど。
1週間ぶりに会った。 顔が紅潮する。 涙が出そうになる。 声が震える。
あなたが嬉しそうに仕事の内容を語る。 その目が凄く生き生きしてて。
ゴメンね。 私、ずっと心の中で叫んでた。 好き。
日が暮れるまでカフェにいた。 コーヒーカップは4つ並んだ。 カウンターのバリスタは既に代わっていて、初老の男がカップを丁寧に拭いていた。

「ゴメンな、呼び出して」
「平気。ありがとう」

何を話したっけ? 私の学校の事。 金橋君の職場の事。 金橋君の通っていた母校。 私の母。 好きな事。 嫌いなこと。 食べ物、場所、雑貨、洋服。 雑貨が好きと言ったら、あなたも好きな雑貨屋があるって答えた。 今度教えて、赤くなる顔抑えられずにそう言った。

「いいよ、今度一緒に行こう」
「その時、私の好きな場所にも行っていい?」
「じゃ、俺の好きな場所にも行こうよ」
「あのね、美味しいイタリアンレストランがあるの」
「そこの駅前のパスタも美味い」

不意に二人、はたと気付いて、笑った。 そんなに行けないと。 あなたは笑ったまま、優しく答えた。

「雑貨屋は明日行けばいい」
「?」
「次の週にはイタリアンレストランに行って」
「………」
「その次の休みには松川の好きな場所に行こう」
「それから?」
「その次は俺の好きな場所」
「素敵」

私も笑った。 あなたはまた柔らかい表情。

「松川の好きな場所、全部行こう。俺の好きな所にも」
「時間、足りるかな」
「一緒に行こう。ずっと、一緒にいよう」

涙が出そう。

それから、会うたびに近づいた。 私は透って呼ぶようになった。 あなたは私の事、舞って呼んだ。




竹芝の海岸公園。 午前のゆりかもめに人はいなくて、風が強く吹く中やっぱり手を繋いで歩いた。 いい天気だった。 電線のない広い駅前を歩いて、階段を上った。
階段の一番上は、目の前が海。 地面に太陽の光が当たって、柔らかくて、暖かくて。 ベンチに座ると、目の前をゴミ拾いの男が通っていった。 遠くに、観覧車。 あなたはそのすぐ傍を指さした。

「あれ。今度俺が手がけるマンション」
「大きいのね」

大分できあがってるけど、透は仕事しないの? 聞いたら笑われた。

「まだまだ先だよ」
「それならまだまだ会えるんだ」

精一杯の告白のつもりだったよ。 目なんて合わせられないから、あなたと同じ方向見て。 あなたが何も答えてくれないから、ちらりと横目見た。 その瞬間、斜め上から唇が降ってきた。
男の人と付き合うのは初めてじゃないけど、その度にドキドキする。 心臓が波打って、顔に血が上るのが分かる。 あなたとのキスは、海の香りと、太陽の匂い。 それから少しだけ、甘い匂いがした。





あなたがグラタンが好きだって言ったから、あなたの誕生日にはグラタンの材料持って家に行った。
初めて入った家の中は、片付いているようないないような。 男一人暮らしなんだって、恥ずかしそうにあなたは頭をかいた。

「舞、危ないよ」
「ん?」
「一人暮らしの男の家なんかに来ちゃ」
「わー、来ました。透の口説き口調ー」
「うるさい」

材料の入った袋を、テーブルの上においてたら、後ろから抱きしめられた。 体勢を崩して、あぐらかいてるあなたの足の中に座り込む。 手に持っていたジャガイモが、テーブルの下に転がっていった。

「…じゃがいも」
「いいよ。後で取りに行けば」

何度も何度も口付けを交わした。 紺色のソファに押し倒されて…あぁもうそれからは覚えてなんてない。 意識が飛びそうなギリギリの淵で、あなたの声をいくつも聞いた。
あったかい。 熱い。 大好き。
意識を手放す瞬間に、あなたが『好き』と、呟いた。

意識が戻ったら、あなたが隣に寝てた。 いつの間にか寝室に移動してて、私は真っ白なシーツを巻き付けられて。

「おはよ」
「…夜だけどね」

急に恥ずかしくなって、寝返りを打って顔を隠した。

「もぉ―…グラタン作りに来たのにぃー」
「作ってくんないのか」
「悪魔」

もうすぐ終わってしまう誕生日。 最後にグラタン作って、シャンパンを開けた。






大学まであなたが来た。 友達はみんな私の事冷やかして。 私は友達の頭をはたいてあなたの元に駆け寄る。

「どうしたの」
「逢いたくて」

こんなトコ来たら恥ずかしいって言ったらだから来たと意地悪な顔。
逢う頻度が変わったね。 2週間に一回だったのが一週間に一回になった。 どんどん加速する。 今では暇さえあればあなたと一緒。 これはやっぱり危険なのかもしれない。 いつ終わってしまうとも分からない危険なひと時。

「どこか、行く?」
「いつものカフェがいい」

最近のお気に入りはカフェラテ。 フワフワの泡に、ほろ苦いコーヒーの香りがよく似合う。
色が好きだ。 あなたはやっぱりエスプレッソ。 濃いコーヒーが、やっぱり好きみたい。

「フランスに行く、かもしれない」

不意の言葉に顔を見ると、まだ分からないけどね、とあなたは笑った。 鼓動が早くなったのを知られたくなかった。

「今回の仕事が終わったら、勉強しに行かせてもらえるかもしれないんだ」
「そう」

最初と同じようにあなたは嬉しそうな顔。 私もつられて嬉しそうな顔。
例えば、お料理で失敗しちゃった瞬間とか。 インターネットで押しちゃいけないリンクを押しちゃった時とか。 友達に言ってはいけない一言を言った時とか。 全身が粟立つように電流が走り、ギクッってなる。 そんな感じ。 悟られたくなくて、俯いた。 逃げたくて話を変えた。

「ね、パスタ食べに行かない?」
「今日の夜?いいな」

微笑んだあなたの表情を、ずっと心に納めていたくて見つめていた。
ちょっとだけ固いアルデンテが好きだ。 カルボナーラよりもぺペロンチーノがいい。 サラダはフレンチドレッシング。 食後にプリンがあったら一番いい。

「マンションの方、どう?」
「…中々上手くいかないんだ」
「思い通りに?」
「そう。頭で考えてる事が、上手く表現できない」
「…難しいのね」

それでも好きな事ができるからいい、とあなたが笑う。 困ったときに後頭部をかく癖を、もう覚えてしまった。






今が一番幸せなんだと思うと、あなたが呟いた。 夕方の、電気もつけてない私の部屋。

「隣に舞がいて、こんな風に本を読んで」
「そんな事が?」
「俺、好きな仕事してて」
「いつもの通りじゃない」
「だけどそれはいつまでも続くわけじゃない」

そう。
この幸せに、終わりがあることを知っている。 ずっと一緒にいられたらいいけど。

「なぁ、こんな寂しい考え方しかできない俺にグラタン作ってよ」
「………どうしてそんな方向に行くのかしらあなたは」

年の差を感じさせないあなたの微笑みが好きです。 心地よいテノールも、淡い緑のセーターも、誰よりも大好きです。 あなたの事が必要なんです。
私、もうあなたなしでは生きられなくなってしまった。 あなたも、私の事が必要であればいいと、切に願います。

「グラタン作ってよ」
「自分でも作れるんでしょ?」
「もう駄目だな」
「どうして」

ほらまた笑う。 そうやって私を縛る。 私はまだあなたの言葉に縛られてるの。 この間の一言に。

『フランスに、行くかもしれない』

「舞がグラタン作ってくれたからそれ以外はもう食えない」
「!」

何気ない一言がホラ、私の願いを叶えてるってあなた気付いてますか?

「舞のグラタンが食べたい」






どうしようもなく寂しい夜、あなたにメールする。

『今、暇?』

すぐに電話がかかってきて、ベッドの上座ってそれを取る。

「どうした?」
「……別に」

電話越しに聞くあなたの声は耳の奥深くに浸み込むようで好きだと思う。 もうすっかりあなたに依存してしまった。 これからどうしてくれるのよ。

「電話って素敵ね」
「どうしたんだよ」
「目を瞑ってるとね、透がすぐ傍で喋ってるような気になるの」
「…………」

暫く沈黙。 電話の向こうであなたが笑ってるような気がした。

「……笑ってるの?」
「ハハ…っ」
「やっぱり」

どうしようもなく寂しくなるときがあるのよ。

「寂しいのか?」
「……かもしれない」

理由も分からず、大声で叫んでしまいたいときが。 人恋しくて、誰かに縋りつきたくて、泣き喚きたくて。 だから、理由なんてないの。 ただ、不意にそれは訪れて、しかも去ってくれない。

「……すぐ行く」

こっちの答えも聞かずに電話が切れる。 時刻は午前0時を回ってる。

「…………ありがと」

聞こえるはずのないあなたに届けたくて紡いだ言葉は、かすれた音しか出なかった。
膝を抱えてあなたを待つ。 1から100まで何度も数えた。 瞑った目の裏で、電車を待つあなたの姿が浮かんでくる。 誰もいない電車に乗ってあなたが来る。 道路を一人で歩いて、あなたが来る。 もうすぐ、もうすぐ…あなたが角を曲がる。 もう一つ曲がったら私のマンション…

ピンポー…ン

……あら、速かったみたいね、あなたのほうが。

「……おつかれ」
「…マジ、おつ、か、れ…っ」

息を切らして、膝に手をついて、ドアの前にあなたがいた。 電話よりももっと近い。 もっともっと近くに来てよ。

「大丈夫か?」
「…死にそうだったかも」

ドアの前で抱き合って、心の中でありがとうを繰り返す。
あなたの事、こんなにも大好きです。 好きだと何度言葉を紡げば気がすむのかな。 何度抱き合ったら満ち足りるのかな。 何度キスすれば…体を重ねれば。 底なしの沼。 求めても求めても更に求める。
あなたを。
こんなにも大好きなんです。




終わりなんてなければいい。 始まりがあれば終わりがあること、ずっと知ってたつもりだけどそう願う。
背中合わせになって過ごす休日とか。 一緒にパスタを作りながら笑い合う真昼とか。 モールに買い物に行って、食材を選んでお金を出し合うそんな瞬間ですら、愛しいと感じる。
あなたに呼ばれるだけで私の名前が素敵な響きになるの。 何の変哲も無い日常に、あなたが加わるだけでスパイスが効いて、キラキラして見える。

雨が降ればその雫に。 晴れた時は太陽に。 寒い夜には、瞬く都会の星達に。
何度も何度も願うよ。
お願いだから、神様。 あの人をどこかにやらないで。
カフェラテの、あの泡が好き。 ゆったりとして、密度が濃くて、甘いけど苦味があるの。 満ち足りた気分になる。 あなたといる時と同じよ。
カフェラテの色が好き。 決して濃くない茶の色が、淡くて繊細で、いい。




「バレンタイン」
「は?」
「もうすぐ」
「…分かってるよ。どうしたの」

私の部屋でクッションを抱えたあなたが、何か訴えるように私に視線を向ける。

「チョコはいいからさ、夕食作りに来てよ」
「……何よぉ。チョコ買ったのに」
「じゃチョコもくれ」

テーブルの上には、難しい設計図が並んでる。 仕事も佳境に入ったみたいだ。 エスプレッソを入れて、私もあなたの元に。 鉛筆くわえて難しそうな顔。

「贅沢」
「仕事頑張ってる透君にご奉仕してよ」
「まぁ…いいけどね」

シンプルでいて、飽きが来なくて。 そんな部屋にしたいと笑うあなたの顔は無邪気。

「基調はな、淡い茶色と黒なんだ」
「へぇー」
「舞、好きだろ?」
「そんな事ない。私クリーム色が好きよ」

私の事、知らないの? ちょっとだけムッとして、睨み付けたらあなたはまた笑った。

「カフェラテ」
「え?」
「カフェラテ、好きだろ?よく飲んでる」

カフェラテみたいな、落ち着ける部屋が作りたい。 あなたが言った。 なんだ、この人、私の知らない私まで知ってる。

「部屋が出来上がったら一番最初に見に来いよ」
「いいの?」
「来て欲しい」

深い、目。 それもまた、好き。






バレンタインの日は雨だった。 夜には上がったけど、肝心のあなたがいない。
お仕事。
お料理は全部作り終えた。 綺麗に飾った。 だけど、あなたがいない。

「………電話くらいしてこい…お馬鹿さんっ」

あなたの部屋の、紺色のソファに身を預ける。 ケータイを、ほおり投げる。 その瞬間、オルゴールのTop Of The Worldが流れて、驚いた。 慌てて身を起こして、電話に出る。 着信はあなた。

「透?」
「…ごめん、舞…っ」

嫌な予感はしてたの。 苦笑したらあなたはまた謝った。

「お仕事でしょ?」
「あぁ。マンションから出られないんだ」
「…そ、っか」
「舞、今どこにいるんだ?」

あなたの部屋に決まってるじゃない。 もうお料理も全部揃ってるのに。

「ごめん、マンションまで来てくれないか?」
「えぇ!?」
「だって俺、舞の夕飯食いたいよ」
「ちょ…今度また作るから…」
「バレンタインは今日だけだ」

困った。 だけど。 嬉しい。
薄暗いまだ、出来上がってないマンションの最上階。 大きな窓からは、観覧車の光が差し込んでた。

「…透…?」
「あぁ、来た。良かった。俺、腹へって死にそうだよ」
「他の人はいないの?」
「この部屋は俺の担当だから」

床に座り込んで、真剣そうなあなた。 他の先輩達はもう帰っちゃったのに、頑張ってるあなた。 床一面に広がった沢山の設計図。 踏み場もない程積まれた、沢山の機械。

「エスプレッソでいい?」
「コーヒーも持ってきてくれたのか」
「うん。正解だった。この部屋、凄く寒い」

暖房もまだない、未完成の部屋。 パックに詰めてきた料理たちを、床に広げた。 嬉しそうな表情のあなたが、見たかったの。

「すげ。うまそ」
「ありがと」

夜に濡れた観覧車が綺麗だった。 安っぽいトールのエスプレッソとカフェラテ。 暗がりのマンション。 床に並べた料理。 こんな晩餐も素敵ね。

「新作だね」
「うん。お母さんに教えてもらったの」
「舞の母さんは本当に凄いな」
「何よ、私は?」
「ははっ、舞サンも凄いデスよ」

静かに雨音が包む部屋の中、二人の声が響く。 ツンと香る木の匂い。 閑散と散らばる設計図の中に、見つけてしまった。

「……透…」
「ん?あぁ、アレ?」

フランスへの留学の書類。

「この仕事が終わったらな」
「………そっか」

二人に残された時間が、もう多くないと悟ってしまいました。




あなたは、とても優秀。 仕事熱心で、仕事の先輩にも一目置かれてる存在。
長年の夢だったフランス留学。 今、叶えられようとしてる。私の願いを置いて。

応援したい。
したくないのかな。

一緒にいたい。
仕事してて欲しいのかな。

グルグル回る想いあなたに気付かれぬように。 渦巻く不安をあなた気付かないで。
私のワガママも、全部。
寂しいな。
もうすぐ、1年。





大学の帰り道、一人でゆりかもめに乗った。 相変わらず人の少ない竹芝の駅。 階段を上がれば、見えるのは観覧車とあのマンション。
あぁ、もうこんなに出来上がってしまったのね。 あと少し。 このマンションの育っていく様は、私の恋の終わっていく様。

「……完成し、たら……」

あなたはフランスに旅立つ。 逢えないわけじゃない。 だけども遠すぎる。 幼い二人が離れるにはあまりにも。
変わらない。 変わらないはず。 だけど見えないところで二人は変わってく。 離れていく。
こんなに近くにいるのに。
カフェラテの泡は、カップの淵にしがみついて中々落ちてくれないのよ。 密度の濃い空気を忘れさせないように、私の心の奥深くにしがみつくの。
でも、それさえもいつかは…。
マンションの前までやってくる。 立て札に、完成予定日。 あと、一週間。 どうしようこんなにあなたを求めてるのに。

「あれ、舞?」
「透」

マンションから缶コーヒー片手に出てきたのはあなた。 思わず笑みが零れる。 どうしようこんなに幸せだ。

「…あと一週間ね」
「そうだな。その二日後にはここを、離れようと思うんだ」
「!」

どうしよう思ったよりも、残された時間は少なかったみたい。

「…俺、さ」
「夢だったんでしょ?フランスは」
「う…あぁ、まぁ」
「何を躊躇してるのよ」

やっぱり、応援しようかな。 私は、頑張ってるあなたが一番好き。

「それで…相談なんだけど」
「え?」









……今、私はタクシーの中。 あなたとの最後の言葉捜してる。 あの日、あなたは言った。 私をしっかり抱きしめて。

『一緒に来てよ』

風は潮を含んでいて。 太陽の香りは海の香りと混ざって私の鼻腔まで届く。 大好きなあなたの声は、耳元で聞こえた。

『フランスに』

大学生なのは承知の上だ、とあなたは続けた。 よく考えて欲しいとも。
嬉しいよ。 凄く、嬉しかった。 胸の中であなたと過ごした日々が渦巻いてる。
空港は人でいっぱいだった。 Aゲートで待ってるはずのあなたの元へ、走り出す。
伝えたい事、いっぱいあるの。

行かないで。 置いていかないで。 だけど、連れて行かないで。 壊れてく愛なんて見たくもないから。
あなたの姿が見えてきた。 搭乗時間まで、あと5分。 私は立ち止まる。 あなたは私の答え、分かってるみたいだった。 寂しそうに、私に笑顔を向ける。

伝えたい事はいっぱいあるわ。 だけど、それを伝える術を私は持たないから私は、ありったけの想いを込めてこう言うの。


「ありがとお!」


そんな、お話。

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