絵里さん
陽射しがまぶしくて眼を開けると、柔らかくなったはずの秋の朝の光りが眼のあたりに差しかかっていたのであった。
土曜日なので学校は休み、まだ起きなくてもいいと布団の中で天井を見上げていると、階段を上る気配がして、なおも耳を澄ますと、
「亮くんご飯よ」
と階段の途中から僕を呼ぶ絵里さんの涼しい声がした。
階段の手すりにそっと手をおきながら上る姿が眼に浮かび、
「あ、……」
はっと布団に身を起こし階段のほうを見ると、開いた襖の陰に絵里さんの白い顔が、形のよい半身を斜めに覗かせてニッコリと笑った。
布団をかたづけ階段を下りていると、この朝早くから市議会議員選挙候補者の連呼の声が、路地をこちらに廻ってやかましく近づいてきた。
絵里さんは二十五才で僕より三つ年上、父の知り合いの長女にあたり、近くのコンビニでパートをしながら、この一ヶ月僕の家で暮らすようになった人だった。男の子一人しかいなかった家の中はぱっと華やいだが、僕には絵里さんの白い姿がちらついて、なんとなく家が寛ぎにくくなった。
彼女が家に来たのは複雑ないきさつがある。僕はまだ学生の身で、ただ表面を見ているに過ぎないのかもしれないが、絵里さんの家庭に起こった身の上、義弟に騙されて会社を追われた形の仁木さんが敗残者で、漲るばかりの悪手を放ったその義弟が地元で名士扱いされ、実業家におさまっているのを聞くと、世間でいう成功者が、優秀な人間とは思えなくなった。
大山漬物という会社が仁木さんの奥さんの実家で、○○市の地場産業の中ではで大手のほうらしい。創業者である義父の下で、仁木さんが営業責任者、義弟が経理責任者として働いていた。義父が健在なうちは波風も立たなかったが、死ぬと義弟夫婦のからくりで、妻の遺産相続権を義弟にとられ、さらに仁木さんは会社を追い出されたのだった。
「言葉だけの口約束で遺産放棄したというのだからねえ」
つい二、三日前の夕食の後、居間でテレビを見ていると、
「ママさあ。絵里ちゃんはどうしてあんなに明るいのかね、あんなにひどい眼にあっているのに」
と父が母に話しかける声がした。絵里さんはそのとき遅番で勤めに出ていた。
母はテレビを見ないで右指でテーブルをはじきながら、BIRD社の販売カタログを眺めていたのだったが、父の突然の言葉がよく分からなくて、
「なにが?」
と聞き返している。父はまた同じ質問をした。
「毎日めそめそされるより、そのほうがいいじゃない。それにまだ若いから、苦労の意味がよく分からないのよ。あの子にとって、なにもかもが夢のようではないのかしら」
「そんなもんかね。つかんことを聞くが、お前もあの年頃はそうだったのかい?」
「そうだったのかいって?」
「若い娘のころは、通り過ぎるものなにもかもが夢のようなものなのかね」
「なーに言ってんの、馬鹿にしないでよ。そりゃあ、うれしいことも悲しいこともあったわよ。うれしいことはうれしいし、悲しいことはやはり悲しいわよ」
「そうだよなあ、やはり悲しいだろうなあ。だいたい仁木は人が好すぎる。ばかだ」
「人がいいってことは、悪いことじゃないわ」
「家族をこんな目に合わせてるんだから、ばかなんだ」
その夜まだ暑く、クーラーをつけていたが、外壁に取り付けたモーターの廻る音がやけに耳障り、花瓶に活けた桔梗の花影が淡かった
この作品への感想は、Tarou氏まで、メールでお願いします。
戻る